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第15回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2006年7月19日(水)午後7時~午後8時30分 開催場所:東本願寺総会所
お話:秋吉正道さん
「がんばらないといけない。」と聞いて皆さんはどう思いますか。さておき、今回は「ゆるす、ゆるさない」というお話しでした。日常生活の中で人に対し「ゆるさない」というこころの起こる私たちです。秋吉さんはそれを「人を裁くこころ」と言われました。自分は善人であり、自分は間違っていないという、そういうこころになってはいないかと私たちに問われました。そして更に、「そのこころが自らを縛って苦しめてはいないか」と言われました。そもそも「ゆるせいない」のは他人ではなく自分自身ではないのかと・・・。信頼、愛情それが、「ゆるす」ことになっていくのではないかと締めくくられました。
ひきつづいて行われた語り合い(座談)
日常の生活の中、人をゆるせるか、ゆるせないかと語り合われました。参加者の一人は「過去に会った出来事が今の自分を苦しめている。ずっと人をゆるせずにいる。」と話しました。それを受け、「自分もゆるせずにいる。」「自分はゆるそうとしている。」「ゆるせない気持をもっていてもいいのではないのか。」「そもそもゆるすことができるのか。」「誰かに対してゆるしても、またすぐに違う人をゆるせなくなる。」と様々な意見がだされました。また、「自分自身から目を背けてしまうときはどんな時か。」と参加者の一人が発言しました。それを受け皆が考える一幕がありました。誰も口にはしませんでしたが、それぞれが同じ思いであったようです。それは「ゆるせない、と怒りにとらわれているとき・・・。」
第14回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2006年6月21日(水)午後7時~午後8時30分 開催場所:東本願寺総会所
お話:秋吉正道さん
今回、秋吉さんは「平等」についてのお話しをされました。さて、私たちは「平等」ということをどう理解しているのでしょうか。「平等」と聞き、まず思うことは一律性の世界、つまり全く同じということではないでしょうか。たとえば私たちは、普段の生活の中で個々の集団での規律が守れなかったり、自分勝手をする個人を異なるものとしてとらえてしまってはいないでしょうか。ややもすると他を排除するこころをもち、自分を最優先してしまうそういう在り方の私たちです。
さらに秋吉さんは、「個人主義で物事を考えてしまう私たちは、しばしば身代わり(モデル)を探す。しかし、「自己以外に自己同一を求めても分裂し、流転する。」と言われました。「私はあの人のようになりたい!」と考えてもなれないどころか、そのことによってより一層の「コンプレックス」を作りだすのです。人は他人には代わることはできません。同じものにはなれないのです。そこで、一体「平等」とはどういうことなのかを秋吉さんはこうおっしゃいます。「ひとりひとりの取り巻く環境そのものを含めて『いのち』という場にひとりひとりが立っている」ことだと。
そう、私たちは同じではないけれども、同じ「いのち」と「場」を生きている。もう一度、真に「平等」を考えてみる必要があるようです。
ひきつづいて行われた語り合い(座談)
秋吉さんのお話を聞き、今回も話し合いが行われました。 「平等」ということを受け、私たちが同じ場を生き本当に尊重しあって生活しているのかが確かめあわれました。参加者の一人が「色んな事件が起こっている。例えば人を殺して、加害者と被害者がいる。いったい何が加害者をそうさせたのか考えさせられる。」と発言しました。それを受け、「・・・やはり、簡単に人を殺してはいけない。でももしかすると、何かあっていつ自分が加害者になるか分からない、あるいは被害者になるかも分からない。」という意見が出ました。さらに同じ参加者が「自分は人に対する嫉みや憎しみをもってしまっている・・・。このこころを無くすことができるのだろうか。」と発言したのに対し「嫉みや憎しみを消すことが、できるのかできないのかは分からないけれど、もしかすると、そういうこころを持っている自身だとしっかり受けとめることが物事を考えるうえで大切なのかも・・・。」という意見が出ていました。充実した、語り合いとなりました。私たちも自身の心を覗いてみなければなりません。
第13回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2006年5月17日(水)午後7時~午後8時30分 開催場所:東本願寺総会所
お話:秋吉正道さん
雨のしゃべり場となりました。まず秋吉さんは、朝に見た雨で濁る東本願寺のお堀を思い浮かべて話を始められました。「私達の生活はあの泥水のようです。何もない時、上手くいくときは、澄んでいるように感じられます。しかし、ひとたび何かがあれば濁ります。しかし、あの泥水の中にこそ蓮の花は咲くのです。なによりこの蓮の花に出会わない人生は空しいのです。」
さらには、「いのち」を親鸞聖人がどんな言葉で表現されているかを続いてお話され、その締めくくりとして葉祥明(ようしょうめい)氏の詩「Message of Life 今日という日・・・」を全員で読み上げました。その一文です。
「自分を良く見せようと心にも無いことを言ったり、知ったかぶりをしたり、自分の方が上で相手は劣っていると思いたがったり、自分の弱気や自身の無さを知られまいとしてその場をとりつくろったり、強ぶったりしている自分を自覚しよう。辛いことだけどそれが、人が成長するための第1歩!自分を振り返ることなしには誰も成長できないのです。意味ある人生、意義ある人生とは、自分を大切にし、他の人を大切にし、生きとし生けるものを大切にし、地球の全てを大切にする。そんな人生こそ!人生と呼ぶに値する。」
ひきつづいて行われた語り合い(座談)
今回は、秋吉さんのお話しで出された「いのち」について話し合われました。「いのちにはむなしさはない」という秋吉さんの言葉から、生活を問い直し、やはりむなしさばかりの自分自身というものを確認されている人もいました。そこから「私(自分)」と「いのち」の関係性ということについても語り合われました。また、「人のことを本当に信じることが出来るのか」という問いに、「人間ほど信用できないものはない」といった意見も出されました。人は、それぞれ育った環境もバラバラで、価値観もバラバラで・・・。そこにはバラバラしかない。ただ「バラバラでいっしょ」ということを認めていけることが大切であり、それが「本当のいのち」の姿ではないだろうかと考えさせられました。
第12回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2006年4月19日(水)午後7時~午後8時30分 開催場所:東本願寺総会所
お話:秋吉正道さん
「東本願寺しゃべり場」も回を重ね、まる一年12回目を迎えることとなりました。さて、今回秋吉さんは、お釈迦様が誕生されてすぐ発せられたという「天上天下唯我独尊」という言葉からお話を始められました。
「天の上にも天の下にも我ひとりにして尊し」と読むこの言葉は、「私が私のままで尊い」という「独立と人の尊さ」を表しています。ところが私たちはいろんなものが横にくっついてないと「自分はつまらない」と思ってしまいます。それは、能力であったり権力であったり、秋吉さんはこれを「杖(つえ)」と表現しています。私たちはいろんな杖がないと一人で立つことさえおぼつかないのです。
そして、私たちが欲っしている杖は「経済」、「家内安全」、「無病息災」に象徴され、また、この私たちの思いと別に「唯一」、「独自性」、「有限性」、「無常」の4つがこの世の必然であるとおっしゃいます。この欲する心と世の必然の間で私たちは苦しんでいるのです。
いったい私たちは「私がここにいるということ、そのことが尊い」というお釈迦様の言葉をどこで頷いていくことができるのでしょうか。
ここで秋吉さんは、この言葉をお釈迦様がこの世に出られてすぐに発せられたということに注目されます。そして、「実はお釈迦様から私たちが「私の出世の一大事」とはなんであるか。人間として世に出てきたこの一大事、その本当に大事なことは何なのかこれを問いかけられているのではないか」とおっしゃられ、さらには、「一大事として賜ったいのちが「私は私自身でありつづけたい」と深く願っているのではないか」という問題提起をされました。
ひきつづいて行われた語り合い(座談)
今回は、秋吉さんが使われた言葉の一つ一つを確かめるように、丁寧な話し合いが行われました。例えば「経済」とは「無常」とは、今まで当たり前に使っていた言葉を、自分自身の言葉として捉えなおしているようでした。またこのほかに、NHKで放送された「東本願寺しゃべり場」を見て初めて参加された方も多く、自らの生活の問題を皆に問いかける一幕もありました。
それは、自分の生活の問題を語り、解決方法の糸口を見いだそうとしていました。また、同じ問題を抱えている人がいるという事実を確認しあっているようでした。
第11回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2006年3月15日(水)午後7時~午後8時30分 開催場所:東本願寺総会所
お話:白川良行さん
今回は、青少幼年センター準備室スタッフの白川さんから問題提起がありました。東本願寺は、2011年に宗祖親鸞聖人の750回御遠忌をお迎えするにあたり、「今、いのちがあなたを生きている」というテーマを発信しています。このテーマを聞いて皆さんはどう思われますか。私達は「私のいのち」と思っていますが、ほんとうにそうでしょうか。「いのち」ということを真摯に考えるとき、私にはこのテーマが仏様からのメッセージのようにさえ聞こえます。そこで私はこのテーマに「あなたがあなたとして、私が私として生きていられる大地がある」というサブテーマをつけたいと思います。あなたも、サブテーマをつけてみてください。
ひきつづいて行われた語り合い(座談)
いのちについてそれぞれの想いを話しました。いのちは自分のものであるから、どうしようといいのではないかと話す参加者がいる一方で、いのちは自分のものではないのではないかと話す人もいました。自分他人とものいのちをおろそかに考えてしまう自分のあり方がある。でも本当は皆、「生きたい」と願う一人一人なのではないでしょうか。