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第20回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2006年12月20日(水)午後7時~午後8時30分 開催場所:東本願寺総会所
お話:白川良行さん
20回目の開催となる今回は、今までの「東本願寺しゃべり場」を振り返り、そして今後どんな「場」にしていくかを参加者主体で話し合うこととなりました。様々な意見が出ました。
「東本願寺しゃべり場はお寺でやっているしゃべり場ということが大きい」
「これまではお話しを受けて、そこから生活の問題を考えていった。でも、途中から来る参加者はお話しが聞けず、座談でも話し難いのでは・・・。」
「もっと皆の、いま問題となっていることを聞いていきたい。」
「話してもらう人を選んでの、座談はどうだろうか。」
「東本願寺しゃべり場は、しゃべるだけではなく、お話しを『聞く』ということもあるし、お話を聞きたくて来る人もいる。」
「座談の内容は、お話の内容から離れても良いのではないか」
「座談の方は皆が本当に何でも話せるような場としていきたい。」
この「東本願寺しゃべり場」は若者たちに開かれた場です。何でもしゃべれる「場」を皆さんと作っていきたいと願っています。是非皆さん「東本願寺しゃべり場」にご参加ください。
第19回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2006年11月15日(水)午後7時~午後8時30分 開催場所:東本願寺総会所
お話:白川良行さん
白川さんから2回目となるお話しをいただきました。白川さんは「私は父が亡くなったとき案内状を書きながら、父を思い出していた。生きているときはなかなか思わなかったのに、亡くなってから色んな思いがわいてきた」という自身の体験をとおし「亡くなった方は、今を生きている私たちがどういただいていくかで変わってくる。亡くなった方は、生きている者に関わってくるのです」と私たちに問いかけられます。
また、自分と他者との関係性ということについて、今の私たちのあり方、人間の凡夫(ぼんぶ)であるというあり方を話され、最後に「自分を大切にしないことは、他者に対しても大切に思っていないのでは」という「自利利他円満(じりりたえんまん)」ということの大切さを話されました。
ひきつづいて行われた語り合い(座談)
白川さんのお話しを受け、参加者一人一人が自分の思いをもとに話し合いました。ある参加者の「亡くなった人を皆どう思う」という問いかけに、皆難しそうにしています。それでも「亡くなった人はもう居ないけれど、私がその人から教えてもらったことや、色んな思い出が残っている」という発言がありました。その発言に思わされますが、今を生きている私たちが亡くなった方を思い、また、教えられるということがあるのではないでしょうか。
さらに関係性ということから「いじめ」についての話し合いとなりました。「やっぱり、いじめはよくない」「いじめられた時の気持ちって、すごく嫌な感じ・・・」という発言や、「日頃生活する上で、自分はいじめられたという思いをもったりするけれど、ある時にはいじめる立場に立ってしまっているのではないだろうか・・・」という発言など、いろんな意見が出されました。
第18回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2006年10月18日(水)午後7時~午後8時30分 開催場所:東本願寺総会所
お話:白川良行さん
今回からは白川良行さんにお話しいただきます。まず白川さんは、「お寺に生まれたという事実をどう引き受けていったらよいのか、この課題が私の歩みの始まりです」と自らの体験談を通し、私たち一人一人が抱えるそれぞれの問題について考える糸口を示してくださいました。
私たちは過去を振り返ることや、未来を見ることは案外得意なのかもしれません。しかし、現在についてはどうでしょうか。白川さんは「現在に満足しないで過去の栄光にすがったり、未来のことばかり考え、なかなか今いる場所を自分のものにできていないのではないですか」とおっしゃいます。そして、お話しの中で何度も話された「いま、ここ、自分ということをはっきりしていき、わたしがわたしとしてしっかり歩んでいく」という言葉を噛みしめて、そこから一歩踏み出してみてはいかがでしょうか。
ひきつづいて行われた語り合い(座談)
「いま居る場所がなかなか自分の場所にできない」「でも、先のことをみていかないと現在が不安だ」「今ということをみながら、今を過ごせるのか」と様々に意見がだされました。さらに発展され「楽しい」や「悲しい」ということについて話し合いが進みました。「楽しいことを常に求めてしまう」「自分が楽しくなるためにはどうしたらいいのかということを考えてしまう」という発言を受け「自分だけが楽しいということがありえるのだろうか、想像してみると少し変な感じがする・・・」「悲しいことがあるからこそ、また楽しいことがあるのでは」「自分だけが楽しい世界はないのかもしれない、自分と人がいるから色々あっていいのかもしれない」という声が聞かされました。
第17回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2006年9月20日(水)午後7時~午後8時30分 開催場所:東本願寺総会所
お話:秋吉正道さん
まず、秋吉さん自身が気になっている歌を紹介し、そこから私たちの日常の思いを考えました。僕らはいうなれば、馴れ合いの日常を送っている。朝起きて一日することが決まってしまっている。今日朝起きて「あっ目覚めた」という喜びも別に感じないし、今日一日を生き抜いたという感動もない。当たり前に毎日が過ぎて、そこには感激も感動もない。
なぜなら、僕らは常に安定した生活を求め、さらに、その生活を楽して手に入れたいと望んでいる。
しかしどうだろう。苦が無ければ楽ということもないように、僕らは本来分けられないものを分けようとしていないだろうか。またそこには、自分自身のことをかえりみずに、自分以外のものに楽だけを求める姿がみえてこないだろうか。
これでは、本当に自身の内からの喜びが得られない。
こんな、僕たちの「さまよう」生活、それを「未足(みそく)」と呼ぶ。「まだ足りない、まだ足りない」という欲望を満たされないことから苦が起こってくる。
そこからは苦しみの原因を他人や社会に向け、自分のことは考えない私たちのあり方が問われてくるのです。
そして、秋吉さんは「僕たちは既に存在しているという尊さに感謝すべきではないか」という問題提起をされました。
ひきつづいて行われた語り合い(座談)
今回は、秋吉さんも座談に参加しました。皆「う~ん」と言ったきり、なかなか意見が出ません。
今日のお話を受けて、あらためて一人ひとりが自分自身のあり方に目を向けているようです。普段の自分はどのような生活をおくり、どのように人と接し、自分はどう思われているのか、自分とは何であるのか。それは、人間としての生まれた意義を求める歩みのようです。
そんな中、「手を合わせる」ことについて、話された方がいました。私たちは何故手を合わせるのでしょうか。お願いしようとしたときや、「いただきます」とご飯を食べるとき等様々です。その手を合わせるということは私たちが、いのちをいただき、色々な出来事が起こるけれども、生かさせていただいていることに感謝する深い気持の表れではないでしょうか。
そして、参加者の一人からあった「これからも自身のことを振り返ってみようと思う。その中で、どうまわりとの関係や、自分の考え方とかが変わっていけるだろうかを考えてみたい」という発言が座談を象徴しているかのようでした。
第16回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2006年8月16日(水)午後7時~午後8時30分 開催場所:東本願寺総会所
お話:秋吉正道さん
秋吉さんは、最近ずいぶん年下の知人が交通事故で亡くなられたというお話しを始められました。秋吉さん自身、そのことを通し、この世の「無常」について考えされられたということです。私たちは「無常」ということについて、「いつ何が起こるか分からない」と頭では理解しつつも、本当に実感し、忘れず生活をおくっているのでしょうか。そのことを忘れ、目先のものに捕われている自身の姿があるのではないでしょうか。重ねて秋吉さんは、「部屋の話し」をされました。今の時代は物があふれ、欲しい物が手に入ります。自分の部屋を振り返っても、便利な物でいっぱいです。しかし、窮屈になってはいないでしょうか。少し前までは、物がなくて「(心の)窮屈」でない時代があったのです。と話されました。
「無常」を真に理解できずに、「餓鬼道(仏教でいう、欲にまみれた世界)」の生き方になってはいないか、色んな物を手に入れ、しかし本当に満たされるものがあるのかどうか。今一度、自身の生活を振り返ってみてはどうでしょうか。と締めくくられました。
ひきつづいて行われた語り合い(座談)
今回、座談では「無常」「死」「生」ということについて語り合われました。「死をわすれた生はどうなのだろうか。重い病にかかり生の大切さに気がついたという話しを聞いたことがある。」「死の問題を他の問題として自分の問題にしていない・・・。」「死んだ人との関係性、身近な人か、そうでない人かで、その人の死を受け止める(私の心の)深さが違ってくる」「死によってその人がいなくなり、その人のいた場所の変化についていけるだろうか。」等々、本当に自分が思っている素直な気持が出された話し合いとなりました。