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活動内容

第25回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2007年5月16日(水)午後7時~午後8時30分  開催場所:東本願寺総会所

お話:秋吉正道さん

第25回「東本願寺しゃべり場」 の様子  「先週、私は根室に行ってきました。
 根室っていうと何を思い出す? えっ、連想できない。じゃあ、知床半島は?北方領土は?」

 今回は、こんな一言から、秋吉さんが根室で開かれた「真宗大谷派全国青年研修会」で、アイヌの人と出会って感じ考えられたことを話されました。
 それは北海道や北方領土に、本州から「和人」が押し寄せる以前から住んでいた人々の歴史や背景に思いを巡らし、国、組織、戦争、差別という大きな課題から、私たち一人ひとりのあり方までが問題となっていきました。

 「今まで(社会での)色んな運動があったけれど、ある意味敵を見つけるための運動だったんです。人は敵を見つけると元気を出していくでしょ。
 でも、今回私が出会ったアイヌの人は「(運動は)敵を見つけることじゃない」と語るんです。
 出会っていくということには必ず縁があります。縁があるということは人と人とが関係するということです。ところが、人は関係性を持たないと生きていけないのに、自分を中心として相手をいたわることも無い。

 例えば、私たちは血縁を優先させるでしょ。それは血が違う相手には排他的になるということです。それが色んな形を持ちながら社会の中で差別を生み出すんです。
 国家の制度や家族の制度を持つと、同質なるものを受け入れようとしますね。一つの組織を作ったら、皆同体扱いされるんです。結婚式なんかで「一心同体になって」というでしょ。それは同質になろうとすることを意味します。極端に言うと「右向け右」です。そこにいる個人がどういう願いを持ち関わろうとしているのかは無視され「一人(いちにん)」という存在が消されるんですね。
 実は、この考え方は自分(心)の中に内包されているのですが、やっかいなことにその心に気付くこともなかなかできないのです。
 一人一人が違う中で、どうやったら関係が修復され「敵を作らない生き方」につながっていくのでしょうね。

 親鸞聖人は、こんな自分を中心とする私たちの生き方を「逆立ち」していると言います。私たちは逆立ちしている生活をし、逆立ちして物事を見て、物事の本当の姿を見ていないのではないでしょうか。そういう逆立ちした生活をしているといつも力をいれていなければならないんです。
 そういう私たちに親鸞聖人は「寝転びなさい」と言います。寝ていたら力はいらないでしょ。
 今回はできなかったけれど、北海道で大地に寝転んだら気持ちよかっただろうね。きっと大地で寝転んで感じるような伸びやかな世界が大切なんです。」

ひきつづいて行われた語り合い(座談)

「社会ってなんだろう。公ってなんだろう。」
「例えば報道ということについても、撮影する人や話をする人の意見が少なからず入っているのだろうけど、それが真実ととらえてしまう。」
「ものごとを冷静に見る目は大切かもね。」
「秋吉さんが、領土っていう話をされていたのを聞いて思ったんですが、その土地が誰のものかというと人がオレのものオレのものといって取り合うものではなくて、そこにある『いのち』のものではないだろうか。」

そして、この「東本願寺しゃべり場」についての質問や、思いも話題になりました。

「東本願寺しゃべり場って何回目だっけ」
「ん~、25回目」
「皆さん、よく来られるんですか」
「よく来ているよ。ここに来るとなんか気分が和むし、いいよね」
「最近仕事でなかなか来れず、今日もどうしようと思ったけど、そう思っているうちに来ました」
「人の意見を聞いたり、自分の意見を聞いてもらって考える場は大切だよね」
今回は、ずっと来られている人、通りすがりの人、久しぶりの人が和になって話し合うことができました。
第24回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2007年4月18日(水)午後7時~午後8時30分  開催場所:東本願寺総会所

お話:白川良行さん

第24回「東本願寺しゃべり場」 の様子  「前回は秋吉さんに代わってもらいました。そんなことで、前回のお話に繋がるか不安なんですが、私が、いま感じさせてもらっていることを披瀝して、一緒に考えられたらと思います。実は、最近私たちの願いとか、思いということをちょっと考えさせられることがありました」

 白川さんのお話はちょっと改まったこんな感じで始まり、次のような内容を語られました。
  (なお、プライバシーも考慮し細かな内容は割愛しましたm(__)m )

第24回「東本願寺しゃべり場」 「私の知人で、マスコミ関係で働いていた人がいます。
 当初は大手プロダクションに勤めていましたが、縁あって独立をしました。
 独立してからも、業績を快調に伸ばしましたが、両親が病気になられてから、看病に時間が割かれたのでしょうか、だんだん仕事がすすまなくなりました。
 やがて、両親に先立たれ、仕事も上向きません。今では、生活さえままならなくなっています。
 そんな彼の生活を見て、彼をそして彼の両親を良く知る人から「父親母親が亡くなっていてよかった」という言葉を聞きました。「子どもがこんなことになっているのを知らなくてよかった」という意味のようです。
 どうでしょう、こんな「思い」は、人が亡くなると「安らかにお眠りください」と言いながら、孫が受験になると「しっかり見守ってくださいよ」とたたき起こす。私は、そういう「願い」に似ていように感じます。
 私たちの「願い」「思い」というものは、すごく得手勝手で、その実はこちらから思ってるだけにすぎなくて、本当に相手の立場にたっていないのかもしれません。そこには一緒にやって行くということを感じることができません。
 今回私自身の中には、知人に対して無力さを感じると共に「もっとしっかりしろよ」という怒りにも似た感情など、さまざまな思いが生まれています。
 私が彼になるわけにはいきません。つまり、全て引き受けることもできなければ、突っぱねることもできません。私は、ただ彼を見続けるしかないのであり、見続けていっても解決にはならないかも知れません。
 結局私は、そんな中でいったい「思い」とか「願い」ということを自分の中でどう整理したらよいのかをずっと考えています」

 この後も白川さんは、人が自分の立場でしか理解できない「思い」の危うさから、テレビなどで紹介される例えばスピリチュアルに代表されるふっと気が楽になるような、その実は一方的な人の思いを後押しするにすぎない安易な言葉の危険さを指摘されました。

ひきつづいて行われた語り合い(座談)

人との関係性についての座談となりました。
 「普段、人に期待していたのに、思い通りにしてくれないと憎しみになったりするんです」
 「自分が勝手に人を信じたのに、裏切られるとすごい感情がおこってくるよね」
 「そう、でもなんかそんな自分にさみしさというか、怖さのようなものも感じることがあるんだけど・・・」
 「自分が人を信じたときの信じるって、すごくうすっぺらなものなのかな・・・」
 「そもそも本当に人を信じきるようなことができるのだろうか。少しも疑わず」
 「僕は人を信じています」
 「えっ、本当!例えば人に物を貸して、ひょっとすると返ってこないかもとか思わない?」
 「思います。でも信じています」
 「思っているじゃん!少しでも疑っていたら、信じていると言えるのかなぁ?」
 「ん~・・・」
 「・・・・・なるほど・・・」
お互いの意見を聞きながら真剣に、でも、おもしろ楽しく座談がすすみました。
第23回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2007年3月21日(水)午後7時~午後8時30分  開催場所:東本願寺総会所

お話:秋吉正道さん

第23回「東本願寺しゃべり場」 の様子  今回は白川さんがお休みで久しぶりの秋吉さんです。
 早速一部をご紹介します。
「今日、友人の息子の四十九日(満中陰)法要でした。今年の2月1日、東京で30なかばの青年が亡くなったんです。
 彼とは少年時代に会った記憶しかないんですが、サッカー好きな少年でね。
 その子が東京で何をしているかと思ったら、パフォーマンスをする会社を立ち上げて、あちこちでライブをしたり映像作品を作っていたらしい。
 お通夜の後に見せてもらった作品は「さわやかイレブン」という彼が演出したビデオ。面白いのはイレブンの中に一人?マネキンが入っている。でも10人はそのマネキンと、ごく当たり前に砂浜で無邪気に遊んでいるんだ。まるでマネキンを昔からの友人のようにね。
 しかし、いったい彼はマネキンで何を伝えたかったんだろう。
 彼に聞くわけにいかないんだが、僕には人間が生きていく中での「関係」ということを問題にしているように思える。
 それは、一言でいえば路傍(ろぼう = 道端)の存在を作り出さないということ。
 彼は、マネキンを生きている自分と同じ位置に置いたんだ。どんなものでも存在するということに意味がある。彼はそれを問いたかったんじゃないだろうか。。。
 彼は笑い顔がとってもよかったね。
 誰でも、人間というのは充実した生を輝くように生きたいと思ってる。みんな充実したい。
 彼は死ぬ寸前まで、婚約者にずっと『これで良かった。すごく素敵な人に会わせてもらった』って語りつづけていた。
 どうだろう結果として30なかばであったが、彼は精一杯輝き続けたのではないかな。。。」

 秋吉さんのお話のほんのさわりを紹介しました。
 ここから秋吉さんは仏教語も紹介しながら「僕たちは、画一的な物差しで他者と自己とを比較して一喜一憂するという平面的な生き方から、もっと各々が輝ける立体的な生き方を模索すべきじゃないか」と、お話しを深めていかれます。

ひきつづいて行われた語り合い(座談)

 秋吉さんも参加した座談となりました。
 「輝くってどういうこと。今ひとつ分からない?」
 「どうすれば輝けるだろう?」
 「人生、一人一人の置かれた環境や状況は違う。でも、方向性や自分の意志をはっきりさせる『歩むあり方』ということがあるでしょう。輝くためには、今の自分のあり方を見つめて歩み出す、その一歩が大切なんだよ」と秋吉さん。
 「う~ん。何か普段いろんな事で力が入りすぎて自分を考えることが・・・」
 「自分を考える余裕がないの?」
 「いや、そうじゃないんだけど・・・」
 こんな感じで、みんなの普段の思いや出来事を話し合いました。
 ああ、 やはり文章だけでは、 その場の熱が伝わりません。
 どうぞ、興味を持たれた方は一度参加してみてください。
第22回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2007年2月21日(水)午後7時~午後8時30分  開催場所:東本願寺総会所
第22回「東本願寺しゃべり場」 の様子  20回同様に今回も白川さんを囲んでの座談のみが行われました。 座談といえば難しく聞こえますが、内容は「のほほ~ん」としたフリートークです (^^ ゞ
それは、ストーブを囲んで仏教についての会話が自然と行き交う、ほんわかと暖かで素適な時間でした。

例えば、なんとなく将来についての話。
「いよいよ卒業ね。何か最近の課題ってある?」
  「課題? 気になること? 問題? って言うこと?」
「そう、やりたいことって言う意味も含めて、生活の中で課題になってること」
  「う~ん、無いかな。
  でも、何かこのことについてはっきりさせたいと思ってくれば、やりたいことも自然に見つかる気がする。
  でも、なかなか見つからないな」
「そうね。無理に見つけようとすることもないかもね」
ここまで、聞いていた白川さん
「でも、不安を感じたりはするでしょ。
 実は、問題が分かっていてもなかなか向き合えない、という人のあり方があるでしょ。
 もし、これから空しいと感じたり悩む心があれば、それを追求していくことが大切ではないかな。
 仏の教えは人を照らしてくれる。
 照らされると見えるのは自分の心の深いところだよ」
と会話に加わります。

光に照らされて、私に見えるのは影。 光が強ければ強いほど、私の姿どおりの影がくっきりと浮かび上がります。
私にはそれが、「我という自分を中心にしてしまう心」を写し出しているように思えます。
白川さんは常におっしゃられます。「自分自身のあり方、心の深いところを問うていくことが大切だ」と。
生活する上で問題が起き悩む時、責任を転嫁しても根本の解決につながらないでしょう。
きっと、悩む心は私自身の内から起こってくるのです。
光に照らされて影を見つめるとき、私が本当にやらなければならないことが見えてくる。
そう。きっとそこに、私たちがこれから歩むべき方向が指し示されている気がします。
第21回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2007年1月17日(水)午後7時~午後8時30分  開催場所:東本願寺総会所

お話:白川良行さん

第21回「東本願寺しゃべり場」 の様子  2007年初、21回目のしゃべり場を迎えました。
 白川さんは、自身の体験から改めて「場」と私たちの思いを問われます。
 「私たちは、しゃべり場でも問題提起される「場」が常に問題になり、その「場」と自分の思いが一致しないとつらくなる。皆さんも色んな立場で色んな場所にいる中で、そういうことを感じることがあるのではないですか。
 私自身、様々な状況の場を乗り越えているかというと、そうとは言えない。けれど「場」と自分ということを考えさせていただくなかで、生活していく歩みがあるのです。」と語られます。
 それは、生活する上で、選ばざるをえない状況があることでしょう。しかし、どのような環境に置かれても、縁として歩むことが、その場での私を育てていくのでしょうか。
 最後に白川さんは「選ばざるをえない状況から、良かったといえるものを感じさせていただくことがあるだろう」と私達に語りながら、ご自身にも問いかけられている様でした。

ひきつづいて行われた語り合い(座談)

 前回の打ち合わせを踏まえ、今回からは、特に「お話」の内容に限らず、いろんな思いを話そうということになりました。
 様々な発言がありましたが、ある毎回出席される参加者からは「お正月家に帰って、いつものように親と話をしていたら、親から「今回は愚痴やそういう話をしなかったね」と言われました。確かに気がつくと仏教の教えや、自身の問題について話したように思えます。」という発言がありました。
 私は、両親と仏教や自分の思いを語り合うなんて凄いことだと思います (^^ ♪
 開催スタッフの思いを越えて、少しでも「しゃべり場」がそんな力を参加者に与えているのなら嬉しい限りです。
 さて、話はさらに展開し、「国」ということについての話し合いとなりました。
 「国」と聞いて、「国家」を思い浮かべる人が多かったのですが、中には「国土」としてとらえる参加者もいました。自然の風景、その土地をイメージされた参加者の話を聞き、心の温かさのようなものを感じることができました。
 熱心な話し合いが終わるころ、寒い中をおして出席された参加者には明るい表情を見ることが出来ました。
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