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活動内容

第30回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2006年12月20日(水)午後7時~午後8時30分  開催場所:東本願寺総会所

お話:秋吉正道さん

第30回「東本願寺しゃべり場」 の様子  「先週、私は根室に行ってきました。
 根室っていうと何を思い出す? えっ、連想できない。じゃあ、知床半島は?北方領土は?」

 今回は、こんな一言から、秋吉さんが根室で開かれた「真宗大谷派全国青年研修会」で、アイヌの人と出会って感じ考えられたことを話されました。
 それは北海道や北方領土に、本州から「和人」が押し寄せる以前から住んでいた人々の歴史や背景に思いを巡らし、国、組織、戦争、差別という大きな課題から、私たち一人ひとりのあり方までが問題となっていきました。

 「今まで(社会での)色んな運動があったけれど、ある意味敵を見つけるための運動だったんです。人は敵を見つけると元気を出していくでしょ。
 でも、今回私が出会ったアイヌの人は「(運動は)敵を見つけることじゃない」と語るんです。
 出会っていくということには必ず縁があります。縁があるということは人と人とが関係するということです。ところが、人は関係性を持たないと生きていけないのに、自分を中心として相手をいたわることも無い。

 例えば、私たちは血縁を優先させるでしょ。それは血が違う相手には排他的になるということです。それが色んな形を持ちながら社会の中で差別を生み出すんです。
 国家の制度や家族の制度を持つと、同質なるものを受け入れようとしますね。一つの組織を作ったら、皆同体扱いされるんです。結婚式なんかで「一心同体になって」というでしょ。それは同質になろうとすることを意味します。極端に言うと「右向け右」です。そこにいる個人がどういう願いを持ち関わろうとしているのかは無視され「一人(いちにん)」という存在が消されるんですね。
 実は、この考え方は自分(心)の中に内包されているのですが、やっかいなことにその心に気付くこともなかなかできないのです。
 一人一人が違う中で、どうやったら関係が修復され「敵を作らない生き方」につながっていくのでしょうね。

 親鸞聖人は、こんな自分を中心とする私たちの生き方を「逆立ち」していると言います。私たちは逆立ちしている生活をし、逆立ちして物事を見て、物事の本当の姿を見ていないのではないでしょうか。そういう逆立ちした生活をしているといつも力をいれていなければならないんです。
 そういう私たちに親鸞聖人は「寝転びなさい」と言います。寝ていたら力はいらないでしょ。
 今回はできなかったけれど、北海道で大地に寝転んだら気持ちよかっただろうね。きっと大地で寝転んで感じるような伸びやかな世界が大切なんです。」

ひきつづいて行われた語り合い(座談)

「社会ってなんだろう。公ってなんだろう。」
「例えば報道ということについても、撮影する人や話をする人の意見が少なからず入っているのだろうけど、それが真実ととらえてしまう。」
「ものごとを冷静に見る目は大切かもね。」
「秋吉さんが、領土っていう話をされていたのを聞いて思ったんですが、その土地が誰のものかというと人がオレのものオレのものといって取り合うものではなくて、そこにある『いのち』のものではないだろうか。」

そして、この「東本願寺しゃべり場」についての質問や、思いも話題になりました。

「東本願寺しゃべり場って何回目だっけ」
「ん~、25回目」
「皆さん、よく来られるんですか」
「よく来ているよ。ここに来るとなんか気分が和むし、いいよね」
「最近仕事でなかなか来れず、今日もどうしようと思ったけど、そう思っているうちに来ました」
「人の意見を聞いたり、自分の意見を聞いてもらって考える場は大切だよね」
今回は、ずっと来られている人、通りすがりの人、久しぶりの人が和になって話し合うことができました。
第29回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2006年11月15日(水)午後7時~午後8時30分  開催場所:東本願寺総会所

お話:白川良行さん

第29回「東本願寺しゃべり場」 の様子  「前回は秋吉さんに代わってもらいました。そんなことで、前回のお話に繋がるか不安なんですが、私が、いま感じさせてもらっていることを披瀝して、一緒に考えられたらと思います。実は、最近私たちの願いとか、思いということをちょっと考えさせられることがありました」

 白川さんのお話はちょっと改まったこんな感じで始まり、次のような内容を語られました。
  (なお、プライバシーも考慮し細かな内容は割愛しましたm(__)m )

第24回「東本願寺しゃべり場」 「私の知人で、マスコミ関係で働いていた人がいます。
 当初は大手プロダクションに勤めていましたが、縁あって独立をしました。
 独立してからも、業績を快調に伸ばしましたが、両親が病気になられてから、看病に時間が割かれたのでしょうか、だんだん仕事がすすまなくなりました。
 やがて、両親に先立たれ、仕事も上向きません。今では、生活さえままならなくなっています。
 そんな彼の生活を見て、彼をそして彼の両親を良く知る人から「父親母親が亡くなっていてよかった」という言葉を聞きました。「子どもがこんなことになっているのを知らなくてよかった」という意味のようです。
 どうでしょう、こんな「思い」は、人が亡くなると「安らかにお眠りください」と言いながら、孫が受験になると「しっかり見守ってくださいよ」とたたき起こす。私は、そういう「願い」に似ていように感じます。
 私たちの「願い」「思い」というものは、すごく得手勝手で、その実はこちらから思ってるだけにすぎなくて、本当に相手の立場にたっていないのかもしれません。そこには一緒にやって行くということを感じることができません。
 今回私自身の中には、知人に対して無力さを感じると共に「もっとしっかりしろよ」という怒りにも似た感情など、さまざまな思いが生まれています。
 私が彼になるわけにはいきません。つまり、全て引き受けることもできなければ、突っぱねることもできません。私は、ただ彼を見続けるしかないのであり、見続けていっても解決にはならないかも知れません。
 結局私は、そんな中でいったい「思い」とか「願い」ということを自分の中でどう整理したらよいのかをずっと考えています」

 この後も白川さんは、人が自分の立場でしか理解できない「思い」の危うさから、テレビなどで紹介される例えばスピリチュアルに代表されるふっと気が楽になるような、その実は一方的な人の思いを後押しするにすぎない安易な言葉の危険さを指摘されました。

ひきつづいて行われた語り合い(座談)

人との関係性についての座談となりました。
 「普段、人に期待していたのに、思い通りにしてくれないと憎しみになったりするんです」
 「自分が勝手に人を信じたのに、裏切られるとすごい感情がおこってくるよね」
 「そう、でもなんかそんな自分にさみしさというか、怖さのようなものも感じることがあるんだけど・・・」
 「自分が人を信じたときの信じるって、すごくうすっぺらなものなのかな・・・」
 「そもそも本当に人を信じきるようなことができるのだろうか。少しも疑わず」
 「僕は人を信じています」
 「えっ、本当!例えば人に物を貸して、ひょっとすると返ってこないかもとか思わない?」
 「思います。でも信じています」
 「思っているじゃん!少しでも疑っていたら、信じていると言えるのかなぁ?」
 「ん~・・・」
 「・・・・・なるほど・・・」
お互いの意見を聞きながら真剣に、でも、おもしろ楽しく座談がすすみました。
第28回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2007年3月21日(水)午後7時~午後8時30分  開催場所:東本願寺総会所

お話:秋吉正道さん

第28回「東本願寺しゃべり場」 の様子  今回は白川さんがお休みで久しぶりの秋吉さんです。
 早速一部をご紹介します。
「今日、友人の息子の四十九日(満中陰)法要でした。今年の2月1日、東京で30なかばの青年が亡くなったんです。
 彼とは少年時代に会った記憶しかないんですが、サッカー好きな少年でね。
 その子が東京で何をしているかと思ったら、パフォーマンスをする会社を立ち上げて、あちこちでライブをしたり映像作品を作っていたらしい。
 お通夜の後に見せてもらった作品は「さわやかイレブン」という彼が演出したビデオ。面白いのはイレブンの中に一人?マネキンが入っている。でも10人はそのマネキンと、ごく当たり前に砂浜で無邪気に遊んでいるんだ。まるでマネキンを昔からの友人のようにね。
 しかし、いったい彼はマネキンで何を伝えたかったんだろう。
 彼に聞くわけにいかないんだが、僕には人間が生きていく中での「関係」ということを問題にしているように思える。
 それは、一言でいえば路傍(ろぼう = 道端)の存在を作り出さないということ。
 彼は、マネキンを生きている自分と同じ位置に置いたんだ。どんなものでも存在するということに意味がある。彼はそれを問いたかったんじゃないだろうか。。。
 彼は笑い顔がとってもよかったね。
 誰でも、人間というのは充実した生を輝くように生きたいと思ってる。みんな充実したい。
 彼は死ぬ寸前まで、婚約者にずっと『これで良かった。すごく素敵な人に会わせてもらった』って語りつづけていた。
 どうだろう結果として30なかばであったが、彼は精一杯輝き続けたのではないかな。。。」

 秋吉さんのお話のほんのさわりを紹介しました。
 ここから秋吉さんは仏教語も紹介しながら「僕たちは、画一的な物差しで他者と自己とを比較して一喜一憂するという平面的な生き方から、もっと各々が輝ける立体的な生き方を模索すべきじゃないか」と、お話しを深めていかれます。

ひきつづいて行われた語り合い(座談)

 秋吉さんも参加した座談となりました。
 「輝くってどういうこと。今ひとつ分からない?」
 「どうすれば輝けるだろう?」
 「人生、一人一人の置かれた環境や状況は違う。でも、方向性や自分の意志をはっきりさせる『歩むあり方』ということがあるでしょう。輝くためには、今の自分のあり方を見つめて歩み出す、その一歩が大切なんだよ」と秋吉さん。
 「う~ん。何か普段いろんな事で力が入りすぎて自分を考えることが・・・」
 「自分を考える余裕がないの?」
 「いや、そうじゃないんだけど・・・」
 こんな感じで、みんなの普段の思いや出来事を話し合いました。
 ああ、 やはり文章だけでは、 その場の熱が伝わりません。
 どうぞ、興味を持たれた方は一度参加してみてください。
第27回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2007年2月21日(水)午後7時~午後8時30分  開催場所:東本願寺総会所

お話:白川良行さん

第27回「東本願寺しゃべり場」 の様子  「先日、台風が来るというので結構な時間をかけて備えました。でも、うちには来なかった。 以前、鐘楼を壊されたこともあって、台風の恐さは知っているつもりです。
 しかし自分自身でも驚いたことに、どこかに『こんなに準備をしたのに』という思いが出てきます。 勝手なものです。
 ところが、そんなことを思っていたら、新潟県中越沖で地震というニュースが飛び込んできました。 心底驚きました。自然の力はまさしく人智を超えています。
 被害にあわれた方には心よりお見舞い申し上げます。

 私は、大きな災害によって人工と自然ということについて考えさせられます。
改めて自然の力の大きさと、私達の意志、思いとは無関係に事象が起こるという事実に目を向けざるを得ないのです。
 私達は、全てのものを合理的に判断し納得しようとする。
人工物というのはそういうことでしょ。人の意識の表現です。すべてに人の意志が入っているんです。
 近代以降、私たちは世の中の全てを私の意識で捉えようと努力してきた。
しかし、自然の力はそんな思いをあっけなくひっくり返す。

 そもそも、私たち一人ひとりの意識にも差異があります。
また、私自身の意識は固定されたものなのでしょうか。
 元来、意識(思い)などというものは、個人的要素がある上に、時と状況によって、うつろうものではないでしょうか。

 ところが、私たちはそんな意識を絶対の物差しとして、世の中の全ての合理性を計ろうとする。
そして、是か非か、善か悪かの判断をくだして納得しようとする。
 しかし、土台無理です。私の意識で捉えられないものが次から次へと出てくる。
すると、そのうち納得できないものを否定しようとする。
 それは、納得できないものや人を排除するのみならず、自分自身の存在意義さえ否定しかねない。

 親鸞聖人は「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり」と『歎異抄』でおっしゃっています。
私の意識の都合が善悪を判断すると鋭く見抜いておられるのです。

 真面目に、そして正直に自分を見つめれば見つめるほど、私の都合や欲望を根拠とする「納得しようとする心」は無くならないような気がします。
 しかし、私には捉えきれないものがあるという事実を認めることも必要なのではないでしょうか。
 私たちは、都合を超えた大自然に抱かれ、たとえ思いや価値観が違っても、隣にいるのはともに悩む人間であるという事実に気が付く必要があるのです。それは、お互いに納得してもしなくても、お互いがそのままで認め合っていける世界を望んでいるという、私自身の発見に繋がっていくのではないでしょうか。」

 今回もHP担当の視点から、秋吉さんのお話をギュッと圧縮し、切り取ってみました。 なかなか上手くいきませんね。秋吉さんは、もっともっと深く広く私たちに語りかけます。
 是非、一度リアル「しゃべり場」を体験してみてください。

ひきつづいて行われた語り合い(座談)

「現代の物ってとても使いやすくできているよね。一見便利なようでも果たしてそうなのかな。昔の道具は使うことによって手に馴染んだりしてきて、自分の物にしていくよう自然とできていたんだって」
「例えば携帯電話と靴みたいなものかな。最近の携帯電話は最初から使い易くできているけれど、それに対して靴は履いて自分の足に馴染んでくる」
 秋吉さんも加わります。
「靴を人のと履き間違えると違和感があるでしょ。やはり使って自分の物にしていく靴のような物を人のと間違えると身がよく知っていて、それに気付かせる。自分が考える世界と身が感じる世界が違うのだろうね。」

 どんどん話は続きます。
「生活の中で納得できない事があります・・・」
「皆、納得できない事はあるんだろうね」
「そう・・・。物事に対して納得できない私自身が居るんだろうね。人は納得できる答えを探そうとして、その時納得できてもまた繰り返したり・・・。そういう納得できない自分に気付いていくのが大切なのかも・・・」
 静かに扇風機が回る中、夏の夜は私たちを優しく包んでいきました。
第26回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2007年6月20日(水)午後7時~午後8時30分  開催場所:東本願寺総会所

お話:白川良行さん

第26回「東本願寺しゃべり場」 の様子  「小さい時にままごと遊びをしたことがある人?はい。だいたい皆さんしていますね。
 私もしました。幼稚園から小学校低学年かな、まるで、お父さんやお母さんのように振舞えるのが面白いんですよね。
 ところが、翻訳家・評論家として活躍される清水真砂子さんによりますと、今、子どもたちの中で「ままごと」が成立しないそうです。誰もお父さんやお母さんになろうとしない。皆がペットになろうとする。

 私はこの話を聞いたとき『立つ場の崩壊』ということを思いました。
 「ペットになりたい。お母さん、お父さんの立場になりたくない」これは楽なものになりたいという一種の責任放棄ではないでしょうか。

 そもそも「場」というのは一人では成り立ちません。
 家族や友達や会社の同僚と一つの方向に向かって色んなことをしていかなければなりません。
 そんな中で、自分のしたい事と、しなければならないことが違うと辛いですよね。
 小さな子までもがこの辛さを感じるようになっている。ただ辛いと感じるだけでなく、そこにはどこかあきらめのようなものさえ垣間見えています。

 では、しなければならないこと、出来ること、したいことが一致すると生き生きできると思うんですが、どうもこれもはっきりしない。
 私たちは「したいことすれば良い」と言われると、無我夢中で自分の思い(欲望)に走ってしまいそうです。でも、それが本当に求めていることなんでしょうか。
 例えばケンカすると、胸が痛みますよね。何で痛むかというと、本当はその人と手を取り合って過ごしたい、そういう欲求(願い)が心の奥底にあるからなんです。
 一時だけの楽しみだけで止まってしまっては、本当にしたいことに到達できないのではないでしょうか。
 私には、立つ場が崩壊してきているのは、『本当にしたいこと』が見失われてきているからではないかと思われます」

 白川さんは、この後、「六道(ろくどう)」などの仏教語を交えて話を展開されていきました。

ひきつづいて行われた語り合い(座談)

 誰が持って来てくれたのでしょうか、スイカが出てきました(^^♪
 「皆ままごとってした?」
 「したよ。でもペットは出てこなかった」
 「そうだよね」
 「現実にそういうことが起きているのは、白川さんが言われたように私達も含め、立つ場が崩壊してきているのかな」
 「生活していると色んなことをしなければならないですよね。時にはその場を放棄したくなったり・・・」
 「その時の心境とか周りの状況とか影響されるよね。でも、やってみたら楽しく出来きたことがあった」
 「しなければならないことから、やってみたら楽しくできた・・・。何かそういうのが白川さんが言われた本当にしたいことにつながってくるのかなあ?やってみるとか、我じゃなくて心の奥底からの願いのような?」
 「ん~・・・」
 「ところで皆今日来たのは何かで知って?」
 「看板を見て、立ち寄りました」
 「ホームページを見ました」
 今回は初めての参加者も加わり、自身の経験や思いの内を語ってくれました。
 総会所の中をゆったりした時間が流れていたように感じました。
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