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第40回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2008年8月12日(火)午後7時~午後8時30分 開催場所:東本願寺総会所
お話:白川良行さん
白川さん(以下「白」): | 「夏休みはみんなどうしてるのかな?学生の人は今日あたり帰省してるだろうから(参加者が)少ないんだろうね、ちょっと寂しいけど・・・。君たちは京都に住んでいるの?」 |
参加者(以下「参」): | 「はい。学生の時は地方で下宿してましたけど、今は実家(の京都)に帰ってきました。で、毎日就職活動してますねぇ。」 |
白: | 「どう?やっぱり就職活動は厳しいの?」 |
参: | 「1ついきたかったところがあって、2次面接まで行ってたんですけど・・・う~ん、駄目でした。やっぱり足元見られたのかなぁ。就職決めたかったけどなぁ・・・」 |
参: | 「足元見られたって、どういうこと?」 |
参: | 「いやぁ、学歴というか、ストレートじゃないからかなぁ、って。浪人してたんだけど「じゃぁ、その間君は何をしていたの?ボランティアとかしてたの?」みたいに聞かれるんだけど、そこに言い切れる理由がなくて。してないことを「してました」とかウソはつきたくないし・・・。今回はけっこう自分で色々頑張った!けど駄目だった・・・だから、ホント残念だけど悔いはないかなぁ。でもやっぱり決めたかったなぁ・・・」 |
参: | 「そっか。これからもまだどっか(試験)受けるんでしょ?」 |
参: | 「う~ん、ちょっと改めてまた勉強しようかと。なんとかしたいんだ。」 |
参: | 「この夏は大変だね。そういえば、お坊さんって、この時期お盆のお参りとかで大変なんじゃないんですか?」 |
白: | 「僕は東京なんだけど、関東の方ではお盆参りを7月にするところがほとんどなんだ。だから8月は大丈夫なの。もちろん平常のお参りとかはあるけど、8月だから特に、ということはないですね。」 |
参: | 「へぇ~、そうなんだ」 |
参: | 「ぼく学生の頃関東の大学に通っていて、そこでの出会いから1年間お寺に居候させてもらってた時期がありましたよ。ぼくは(お坊さんじゃないから)お参りとかの法務が出来るわけじゃないんだけど、簡単なお使いみたいなこととかして間借りしてたんですよ。」 |
白: | 「あぁ、そうやって受入れてくれるお寺があるよね。お寺のお掃除とか用事をしたりとかしながらでしょ?」 |
参: | 「そうですね。ぼくの場合食事もたまに一緒にさせてもらったり、結構お世話になりました。今思えばそのお寺も7月ごろが忙しいころだったのかなぁ・・・」 |
白: | 「学生時代にいい体験とうか貴重な経験をさせてもらったんじゃないのかな?だから、こうしてしゃべり場に来るのも抵抗が少なかったのかもね。」 |
参: | 「そうですね。なんか懐かしいというか・・・。もっといろいろな人が(しゃべり場)来たらいいのにって思いますよ。きっと話したい事とか持ってる人いると思うんだけど。」 |
第39回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2008年7月8日(火)午後7時~午後8時30分 開催場所:東本願寺総会所
お話:秋吉正道さん(熊本教区)
今回の秋吉さんのお話しは、「類(たぐい)」と「いのちの時間」をキーワードに進んでいきました。そして今月も『いのちの時間』という絵本が登場します。
今朝7時ぐらいに家を出て「のぞみ」に乗って、お昼過ぎには京都に着きました。新大阪で初めて隣に人が座ったんだけど、その人、いきなりノートパソコンを出して作業をはじめました。
僕は、あちこちに旅をするのが好きで、特にアジアにはもう20年ぐらい毎年行っています。向こうでバスなんかに乗り合わせると、友だち?いや、親戚?と思うぐらい、乗ったとたんに隣同士で話しをしはじめる。でも聞いてみると「いや初めて会った人だよ」とこんな具合です。
ところが日本に帰ってくるとそういうことはめったにありません。ホテルなんかでエレベーターに乗り合わせたとしても、言葉をかけるということがない。
これが外国(人)だったら、何らかの形で声をかけ合ったり、挨拶なんかを交わしますね。ところがあの狭いエレベーターの中でさえ、日本人は言葉を交わすどころか同じ場を共有するという感じが感じられない。逆に声をかけると変な顔されそう。なんというか自分とは全く関係ないものがただそこにあるだけ、そういう感覚なのでしょうか。
だから「のぞみ」で隣に乗り合わせても、私自身、数時間人間の形をしたものが隣にあったというだけでクリアしてしまう・・・
そういうことを考えながらひとつ引っかかっている事があります。親鸞という人は『教行信証』という書物に「類(たぐい)」という言葉をお経から引いて使っています。(註:1)
それは「我々は類としての存在だ」ということを意味するのでしょう。「類」というのは「いろんな生き物」ということです。蝶であったりトンボであったり、蛇であったり、ゴキブリであったり・・・
みんな同じ「類」だというのです。みんな「同じくこの世界を生きている」ということです。
その感覚が、いのちといのちを繋ぎ合わせていくのではないでしょうか。そして決して私は私だけのいのちを生きているのではなかったということに気づかされる。「類」という感覚が、いのちのつながりを生み出していくのでしょう。
もっとも現実には同じ場所にありながらなかなか通じ合うことができない。できたと思っても各々の都合が表れると消えてしまう。「それは何故なんだろうか」「人間って、生きるってどういうことなんだろうか」そういうことを親鸞という人はずっと考えていたんだと思います。
しかし、確かにこの「類」ということに思いを巡らすとき「慈しむ心」が現れる。私の身に現れると親鸞は言います。
ただし私たちが自分で持っている「慈しむ心」ではないとも言う。親鸞は「私が「慈しむ心」だと思っているものは、自分で自分の都合に合わせたものにすぎない。しかし、そのことに気づいた時、初めて本来の慈しむという心が現れる」と言われるのです。
今日は、最近小さな人たち(こどもたち)と一緒に読んでいる『いのちの時間』(註:2)という絵本を紹介します。この絵本を通して文字通り「いのちの時間」と、そして親鸞が言った「類としてのいのち」ということを考えることの手がかりになればと思います。
[秋吉さん絵本朗読]
この本を読むと、改めて、あらゆるものに限りがある、特に生命の限界性というものを確かめさせられます。「生きている」ということをこの絵本では「始まり」と「終わり」の間という表現をしています。そして、「生きるということは何だろう、僕らは何を大事として生きるのか」ということを考えます。もし「大事にするもの」に出遇わなければ、私たちの限りある「生きている時間」というものがすごく弱々しいものになっていく。
それは、「仕方ない」とか「思い通りにならず腹が立つ」とか、・・・もっと言えば「今さえ良ければいいや」という気持ちを生み出していく・・・こういう気持ちが、私たちの「自分が生きる」という事実を捨てることにつながっていくのではないでしょうか。
etc
ひきつづいて行われた語り合い(座談)
今回は、「昼間門の前にある看板を見て来ました」という方が参加してくれました。前回は「ホームページを見て初めてですが・・・」という方の参加もあり、数は多くはありませんが新たな出遇いがあることが大変嬉しく感じています。初めてでも秋吉さんを含めた座談では色々な話が聞かれました。
「自分にとっては意味があると思ってやってきたことが、他人から見たら無駄な時間に見えることがあって、そのギャップに納得がいかないことがある」
「人の言葉なんてどうでもいい、とか思いながら、でもやっぱり気になってしまう」
「自分のやってきたことに無駄な時間なんてない、そう自分が思っていなくちゃ。生きているということに無駄なんてことはないのだから・・・」
「今やっていることが、本当に将来に繋がっていくのか不安がある。」
「結果をすぐに求められてそれに応えられないと、落こぼれというか負け犬みたいな感じがしてしまう」
普段なら「生きていることの意味」とか気恥ずかしさで話せないけど、自分が考えていることを他の人はどう感じるのか、どう考えているのか聞きたいと感じているんだね。正しいとか間違っているとかを問われたりするのじゃなくて、しゃべり場という時間を共有する、そういう時間だったと思っています。
註:1 | 『真宗聖典』158頁 教行信証・行巻・科文11(『大阿弥陀経』一文) 「・・・諸天・人民・蜎飛・蠕動の類、我が名字を聞きて慈心せざるはなけん。・・・」 |
註:2 | 作:ブライアン・メロニー/絵:ロバート・イングペン/約:藤井あけみ 副題「-いのちの大切さをわかちあうために-」 いのちには「始まり」と「終わり」があって、その二つに満ちている「いのちの時間」を生きている。人も鳥も魚も小さな虫も、それぞれの命の時間は違っても「生きている」ことに変わりはない。「生きる時間」は生きているもの全てに平等に与えられている、そういうことを語りかけてくれる絵本です。 |
第38回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2008年6月18日(水)午後7時~午後8時30分 開催場所:東本願寺総会所
お話:四衢 亮さん(高山教区)
私は青少幼年センター準備室でスタッフをしております。小さな子どもたちから皆さんのような青年も含めて、そういう方たちと共に問題を考えていこう、というのがこのセンターの願いです。私は絵本を担当しておりますから、今日もレオ・レオーニ(註:1)という人の、『あおくんときいろちゃん』(註:2)という絵本を持ってきました。
この絵本では、とっても仲がいい「あおくん」と「きいろちゃん」が遊んでいるうちに重なって「みどり」になってしまうという事件がおきます。
「みどり」になった二人は家に帰りますが、どちらの両親も「こんな色の子どもは自分の子ではない」と受入れてくれません。二人はあまりに悲しくて「あお」と「きいろ」の涙を流して泣きました。
やがて涙を流しきると元の「あおくん」と「きいろちゃん」に戻ることができました。そして両親にもなぜ「みどり」になったのかを理解してもらい、自分たちのことをちゃんと受入れてもらうことができた。というお話しです。
レオーニは絵本の中で、子どもたちをみんな違う色にして、なおかつ誰かだけ大きかったり小さかったりせず同じぐらいの大きさに表現しています。
そして、それぞれが持っている色がそれぞれの色いっぱいに耀く、そういうものを持って生まれてきているのに、いろんなことを親や他人や社会に言われることで、自分が自分の色を嫌いになったり、自分の色を認められない。自分が自分にうなづけない。そのことは存在全部が涙になるほど悲しいことだと表現しているように思います。
親鸞聖人は、人間に大事な問題を知らせる世界としてひらく「浄土」についてたくさん詩を作っています。その中に「一一(ちいち)のはなのなかよりは 三十六百千億の 光明てらしてほがらかに いたらぬところはさらになし」という和讃があります。
「はな」とは蓮のこと花です。浄土では、蓮の花はそれぞれ耀きあって無数の色が混ざり合い、いよいよ明るくなるとうたわれています。
浄土の教えというのは、私たちがそれぞれの色いっぱいに耀く、そういう私たちの存在の「在りよう」を映し出します。自分の色が認められないのは涙になるほど悲しいことを感じながら、同時に自分の好きな色だけを集めて嫌な色は排除するということも作り出してしまう人間の社会、良いところも嫌なところも、全てを浄土の教えは映し出し、私たちに教えの世界として開かれているのです。
今日は、絵本から思うこと、そして親鸞聖人の和讃から私たちに呼びかけられている浄土の教えということについてお話しさせていただきました。
ひきつづいて行われた語り合い(座談)
今回は絵本の紹介があったので、参加者の方に総会所の隣にある青少幼年センター準備室に移動してもらい、実際に絵本を手にとって見てもらいました。「大人になってから絵本をひらくことなんてなかった」「子どもの時読んだことのある絵本でも、今見たら全然印象がちがう」などの感想がありました。そして、四衢さんの「お話」の内容に限らず、「どうしてだろう?」「それってホント!?」という疑問なども話に出ました。「親鸞聖人ってどこがすごい人なの?他のお坊さんと何が違うの?」とか「和讃にあった浄土ってほんとうにあるんですか?」などなど・・・そのひとつひとつに四衢さんとても丁寧に答えてくださいました。「思ってはいたけど誰に聞いたらいいのかわからなくて・・・思い切って聞いてみて良かった」という声をきくことができました。註:1 | 1910年オランダ、アムステルダム生まれ。1931年ノーラ・マッフィーと結婚。二人はイタリアで暮らしていたが、1939年のファシスト政権誕生に伴い、ユダヤ系とされた彼は29歳のときアメリカに亡命。多彩な想像力で絵画・グラフィックアート、デザインの各分野で活躍した芸術家。他に絵本では『スイミー』や『フレデリック』などの作品がある。 |
註:2 | この絵本はレオーニがアトリエに遊びにきた孫たちにお話をせがまれた時に偶然生れたもの。手近の紙に色をつけて次つぎに登場人物を創りだしながら作った作品は、絵の具で描かれたちぎり絵のようにも見える青や黄色のまるが生き生きと動きまわり、絵本ならではの優しいタッチで描かれている。 |
第37回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2008年5月21日(水)午後7時~午後8時30分 開催場所:東本願寺総会所
お話:脇淵徹映さん
はじめまして。私は、保育園の園長をしています。
保育園には0歳~6歳の様々な子どもたちがいます。
性格はもちろん、生活環境や家族構成などいろいろな子たちがいます。
人というのは他者との関係性の中で自分を認識し、自己という感覚を身につけていきます。
ですから、「他者」との関わりが成長には不可欠です。
子どもたちが家族以外の「他者」と初めて関わるといってもいいような場が保育園でしょう。
ここで、お母さんは思いの深さから完全な「他者」とはなりません。確かに他の周りの大人たち、お父さん、叔父さん、叔母さんたちが「他者」となれば問題はないでしょう。
しかし、関係性を作り出すということでいえば、一番は子ども同士です。
時に子どもたちは奇声を発してるかのように大人たちからは見えます。実は、まだまだ発達途中の子どもたちの耳の機能にとって一番聞きやすいのがあの声なんです。
皆さんも経験がありませんか?少しお酒を飲んだとき、お互いが大声でしゃべっている場面。あれは、アルコールで少し耳の感覚が麻痺しているんです。だから、自分が聞きやすい声でしゃべるからどうしても声が大きくなるということと同じことです。
実は一歳なら一歳同士の声が聞き取りやすく、お互いを感じやすいのです。
そういう環境の中で、例えば障がいをもっている子どもも自分の存在を認識していくのです。
子どもたちが集まる保育園とはこういう力を持った場所でもあります。
子どもたちから色んなことを考えさせられ、学ばせてくれます。
人間は「思われている」ことが大事です。そして、「思う人」もいないといけません。思う人がいないと人は育ちません。本来、人は「愛されていない」と平気で言えるほど愛されているのです。このことは人間が生きていく上でとても大切であり、保育の現場ではこのことを「基本的信頼感」といっています。
私たちが今まで生きてこられたのは愛されているからです。そのことを敏感に感じていかなければなりません。
最後に脇淵さんは、蝉が脱皮する姿から「お母さんもがんばったけど、私もがんばったんだね」と、蝉が幼虫から成虫へと形を変えていく姿に自分の誕生を、そして抜け殻にお母さんを映した女の子のお話をされ「日常生活の些細なことに少し足を止めてみたら、そこにはいのちの大切な出遇いがある」と教えてくださいました。
ひきつづいて行われた語り合い(座談)
「なかなか日頃は感覚を敏感にして小さな物事に目を向けられないよね」「そうだね。目の前にあることだけを考えて苦しんだりする」
「多くは他者との関係で悩んだりするけれど、脇淵さんも人は他者との関係性で育っていくと言われていたね」
「生きるためには他者との関係が必ずなければならないとも言われていた」
「一人で仕事ができれば楽だろうなと考えることがあるけれど、それでは自分が育たないし、そもそも生きていけないのだろうね」
「前のしゃべり場で秋吉さんが、人は関係性の中生きているのだから他者に迷惑を精一杯かけながら支えあって生きていくことを言われていたのを思い出した」
「迷惑をかけまいと何でも無難にこなそうとするけれど、それでは本当に人と出遇うことができないのだろう」
「今回のお話しを聞いて、決して大人だけが社会の関係性の中で生きているのではないことを知った」
「子どもも大人も、生きていくために関係性の中で自分を確かめていくのだね」
etc.
第36回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2008年4月16日(水)午後7時~午後8時30分 開催場所:東本願寺総会所
お話:秋吉正道さん
現代は生活がデジタル化され、物事を白か黒かで決めようと合理的なやり方を追求し、役に立たない物事は排除しています。それに対し、アナログ的なことは良い悪いと言い切りません。仏教では「中道」ということを言いますが、それは人間の情緒、強さ、弱さというものが伴っているアナログ的な形なのです。しかし、現代はアナログ的なことが許されず、デジタル的な考えによって物事の歴史や背景が消されようとしています。アナログ的な情緒、強さ、弱さが伴う考えは「存在そのもの」に価値を見出すのです。例えば「愛」がそういうことでしょう。デジタルでは数値として表せますが、愛そのものを数値でははかられません。
また、デジタル的なことは平面化していることです。平面上で物事を考えると何もかもが「単なる個」として扱われ、交わりや支えあうことがなくなり、他のせいにして、自分で責任を持たないことから人間が孤独化します。現代はお互いがお互いを尊重しない、人間関係もデジタル化が進んでいるのではないでしょうか。
アナログ的に立体化させるというのは、個々に歴史的背景を持っていることを尊重することです。今日、青少幼年センター準備室の主任が「段々、親父に似てくる・・・」と言っていました。それを聞いて、人間は決して平面化できないのだと思いました。親子が共に生きてきた歴史や環境があり、同じ時間を共有してきたのですから、父に似てくるのは当然なのでしょう。
しかし、そういう情緒や愛を無視した考え方、生き方が現代に溢れています。人が生きられる「場」というものが成立するには「空間・法(決まり)・人」の三つの関係が必要になりますが、今私たちのいる場はどうでしょうか。生き生きできる場になっているのでしょうか。同じ空間に居たとしても、通じあうことがなければ孤独化し、人と共有できる場は成立しません。
仏教には「衆生と共に」という言葉がたくさん出てきて、それが仏教徒である証とされます。どこまでも私と他が呼応(呼びあい応じあう)の関係であることを教えてくれるのです。
ひきつづいて行われた語り合い(座談)
「デジタル化とは、合理的に何もかもこなそうとするため、人が尊重されず窮屈な世の中になっていることだと言われていたね」「それに対し、アナログ的なことは、人と人とが繋がりあえる立体化した関係のことなのだね」
「アナログ的なことの代表として、愛というものは数値ではかれないと言われていたね」
「でも、好きか嫌いかで考えると、愛もデジタル的じゃない?」
「例えば、自分の両親や恋人のことを好きか嫌いかと聞かれたらどう答える?」
「最終的には好きなのだろうけれど、普段は好きなときもあれば嫌いなときもある」
「そういうことでしょ」
「えっ・・・」
「はかれてないじゃない。アナログ的で簡単にはかれないことは難しいことではなく、よく見ると近くにたくさんあるのだろうね」
「そうか、案外近くに情緒や愛があるというのに、自分のデジタル化した考えによって見えなくなっているのだね」
「これからは、デジタル化した合理的なことと、アナログ的な情緒や愛というものを見て、何が大切なのかと人生の勉強をしていきたい」
etc.