活動報告

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活動内容

第59回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2010年3月9日(火)午後7時~午後8時30分  開催場所:東本願寺総会所

お話:秋吉正道さん(熊本教区)

 前回、「つながり」というテーマでお話をしました。人生とは浄化することです。あらゆる存在は、ずっと同じ状態でいられません。どこかで浄化するしかないのです。私にとって、掃除をすることがひとつの浄化作用です大切なのは「浄化するということ」そういう世界を持つことだと思います。
 以前もお話しをしましたが、私たちは、「切り花文化」(自分の好きなものだけ切って集めてきて、枯れては捨てて・・・自分の都合がいいものだけを手元に置いておきたい。)そういう文化を私たちは生きています。そのような生活を送っていて私は20年以上、毎年ネパールに行っていました。ネパールでは秋に「ダサイン」という収穫祭のお祭りがあります。ネパールで最大のお祭りです。このお祭りは、ヤギを生け贄として捧げます。私たちはいのちを奪わなければ生きてはいけません。いのちとは他のいのちを奪うことで成り立っています。そういう意味では、他の物を自分の物に変える、善いも悪いもないのです。ただ、そこで善し悪しをつけるのは、その時の自分の正当化した心なのです。一人の存在というのは、いのちのつながりの中にしかあり得ません。つながりの中で生きています。私たちは、生活の中で空気であるとか水であるとか基本的に意識できているでしょうか?まず意識することはありません。私はある意味では、「南無阿弥陀仏」という世界も、私たちの意識の中で空気のようなものではないかと思います。私たちに意識はできないけれどもはたらき続けている。どういうはたらきかというと、目を覚まさせてくれるというはたらきです。ご本尊に向かい「南無阿弥陀仏」と手を合わせるという形で浄化されていくのです。
 仏教では「宿縁」という言葉があります。これは一人ひとりの身を生きるという事実です。誰とも代えることができない、私が引き受ける世界です。
 例えば、お釈迦様は釈迦族の出身で国王の長子として生まれましたが、29歳の時に出家しました。ですから、自分の国に対していろんな思いがありました。お釈迦様は自分の国が他の国に攻められた時、相手国の王様に「攻めるのはやめてください」と頼みに行きました。2回頼みましたが、3度目に相手国が攻めてきた時は何も言いませんでした。これは、お釈迦様が、人間の思惑の動きは止められないということを知ったからです。これが「宿縁」ということです。お釈迦様だけの個人の問題ではないのです。ずっとずっと歴史の中に積み重なって出来た出来事であるということです。「自分の意識の中で考えたことだけでは通じていかない」ということが「身を生きる」ということです。このことを、今、私たちは忘れてしまっているのではないでしょうか。
 前回、「許す」、「許されない」というお話をしました。そこには「裁く」ということがあります。私たちが「許されない」と思った時、「間違っていない私」にしがみついている私がいます。問題はそこにしがみついているあり方です。許されない心はそこにしがみついてる自分です。執着する心です。自分自身に自分が縛られている。その意味では、救われるということは、縛られている自分の心から離れることができるということです。その心から離れることができたとき、救われるのです。自分自身に自分が縛られているあり方から「立ち上がれ」と呼びかけられる、その呼びかけこそが「南無阿弥陀仏」ということなのです。
第58回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2010年2月9日(火)午後7時~午後8時30分  開催場所:東本願寺総会所

お話:秋吉正道さん(熊本教区)

 先日、七大陸の最高峰を単独で登山した27歳の青年に密着取材したテレビ番組を放送していました。この青年は18歳の頃に、いわゆるニートになったそうです。そして、「何のために仕事をするのか?」「何のために生きているのか?」「目的がはっきりしない人生は消化不良の人生ではないのか?」というようなことを考えるようになり、それがきっかけで登山を始めたそうです。登山をすることで自分の人生を見つめなおそうとしたのでしょう。  人間は生きていくうえで、「新陳代謝」が必要なのだと思います。そうしないと私たちはどうしても一つのことに囚われ、自分の殻に閉じこもってしまいます。自分の都合や一時的な心地よさだけを追い求め、狭い視野で物事を考え行動するような、そんな生き方になってしまいます。それは、活けていた花が枯れたら、すぐに別の花を切ってきて取り換える「切り花文化」とでも言えるような「加工的」な生き方ではないでしょうか。どんなに美しい花であっても、大地に根をはっていなければすぐに枯れてしまうのです。そういう加工的な生き方では、私たちは体の奥底から「今、生きている」と実感することはできないのだと思います。だからこそ、加工的ではない、「創造的」な生き方が求められているのです。  ニートだったこの青年は、単独登山をすることで「新陳代謝」し、「創造的」な生き方を求めようとしたのでしょう。彼は、ひとつ間違えば生命さえ奪われる可能性のある厳しい自然環境に対して全身で向き合うことで、「今、私がここに存在する」「生きている」ということを実感していきます。そしてそのことを実感したとき、彼は同時に「つながり」「関係性」ということを強く意識していくのです。自分は一人きりで山に向かっているけれど決して孤独ではない。自分が生きていることを支えてくれる多くの存在があるのだということに気がつきます。独りだけど一人を超えたつながりがあることに気付いたのです。今ではこの青年は全国各地を講演活動しているそうです。  私たちは誰もが皆この青年のように、日頃「当たり前」にしていることをもう一度確認させてくれるような出来事に出あえることを、そして、生きていること、いのちのつながりということを実感できるような、そういう出来事に出あえることを願われているのです。

ひきつづいて行われた語り合い(座談)

  • 自分の人生に満足するって、どういうことなんだろう。
  • 「自分自身を精一杯生き抜いた」と言えるようなものがなければ、たとえどれだけ長く生きたとしてもダメだと思う。
  • 人生は長ければ良いというものではないと思う。
  • 人間の体には「世間の価値観」が刷り込まれていると思う。僕たちはそういうものを「新陳代謝」して、クリアな存在になっていけるんだろうか。
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