活動報告

  • 青少幼年センターニュース
  • 被災地から
  • 被災地の子どもたちに向けて
  • 子どものつどい
  • 子ども会訪問
  • 子ども上山参拝
  • 絵本ではじめる講習会
  • アーカイブ(今までの歩み)

活動内容

第71回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2011年3月8日(火) 午後7時~午後8時30分  開催場所:青少幼年センター

お話:白川良行さん(青少幼年センター研究員)

花粉症の季節ですね。目は痒いですし鼻はすっきりしないしたいへんです。また、3週間ほど前にはぎっくり腰をやってしまいました。朝、顔を洗っているとき くしゃみがでるなと思ったので、手を洗面台に置いたにもかかわらず、腰を痛めてしまいました。ぎっくり腰をやると情けなくなり、あらためて年齢を重ねて 思いどおりにならないことを感じています。身体のほうは「こうすれば痛くないですよ」と身体が私に教えてくれますが、何か物事をしたいなと思うときは、 思いどおりにならないですね。そうすると、精神的に落ち込んだり、物事が順調にいっていた頃と比べて、思いどおりにならない自分を引き受けられなくなります。

一昨日の日曜日の朝、フジテレビで『ボクらの時代』という番組が放送されていて、タレントのはるな愛さんが出演されていました。はるな愛さんは、 ある人にニューハーフの方のショーに連れていってもらって、非常に華やかで人として輝いているのを見て自分もなりたいと決心されたそうです。そして、 ニューハーフになって歌ったりお酒を飲んだりしているうちに、咽喉にポリープができて今のような低い声しかでなくなったそうです。その時に、 低い声の自分を最初は嫌だったけれど、考えてみれば「私は男だったんだ、それでこういう声なんだ」そういう自分を引き受けたときに、また新たな世界が展開してきた。 だから、自分の今の状況を認めるということが、今の私を一歩前進させたという意味合いのことを言っておられました。私も身体のことでは身体の声を聞くことができるけれども 精神的な面ではなかなか自分の声を聞くことができません。

このように、自分を引き受けるということは、なかなかできないことですが、善導大師の二河譬の譬えにあるように「汝一心正念にしてただちに来たれ」という声を聞くかどうかです。 「ただちに来たれ」と言われたときに、この私がどういうものか分からないと、行こうとしても変な方向に行ってしまうかもしれません。自分の行く方向が決まると「我能く汝を護らん」 というようなことになります。自分がしなければならないことや今の自分の立場や自分のしたいことを「どこに見据えるか」ということが一番根本的なところで、そこから善導大師のいう 仏の招喚というものが聞こえてくるのかなと思います。

つい最近、熊本市で3歳の女児が行方不明になり殺害されるという事件が起こりました。犯人は市内に住む20歳の大学生だそうですが、いったい犯人は何がしたかったのかと思います。 テレビの報道で犯人の同級生が「彼は小さい子がすきだ」と言っていたと話していましたが、同年配の人とは付き合えないから自分より弱い立場の方に自分の欲求を満たしていく。 本当にしたいことに気がつかないから欲望のしたいことだけで物事に走ってしまう。私たちもそういうことがあって、目先をごまかすために例えばパチンコをしたりお酒を飲んだり・・・。 本当にしたいことが何なのか見つけられないのではないかなと思います。「したいことを見つけないともったいないよ」と周りの人はよく言いますが、そのしたいことというのは 欲望で振り回されるようなものになりがちです。本当にしたいことというとうまくはいかないけれど、私ひとりが楽しんでいればいいという世界ではないものが開けてくるのではないかと 思います。いつも自分から他の人を切り捨てて自分が優位に立ちたいというところにいつもいる限りは、今の自分を肯定することもできなければ、他人も肯定することもできないし、 そういったところでは、仏の招喚というものが聞かれないのではないか。だから欲生というのは、本来の自分が生まれたいと願うことだろうから、そこが欲望のところで 思っているかぎりは、仏の招喚というものに素直に頷けないのかなと思います。

第70回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2011年2月8日(火) 午後7時~午後8時30分  開催場所:青少幼年センター

お話:四衢亮さん(青少幼年センター幹事)

昨日は何の日だったかご存知ですか。昨日は「北方領土の日」でした。北海道でも東京でも北方領土返還に関する集会が開かれました。その集会の様子や管首相が昨年、 ロシアのメドベージェフ大統領の国後島訪問について「許し難い暴挙だ」と批判したということが各テレビで放送されていました。そのことについて、 いろいろな考え方はあると思いますが、実は日本でほとんどニュースにならなかったことがありました。ロシアのテレビニュースをNHKのBSで放送していて、 それを見ていたら、東京のロシア大使館の周りにたくさんの右翼の街宣車が来てシュプレヒコールやデモを行っていて、その人たちとロシア大使館を守る機動隊と小競り合いがありました。 その映像はほとんど日本には流れていません。ところが、ロシアのテレビ局はそれを撮影して管首相の発言と併せてロシアのテレビニュースで流しています。 そうするとロシアの人たちは、そのテレビニュースを見ますから、日本ではロシアに対して敵対的な行いや発言が目立つという印象をもってしまいます。ところが、 日本人は東京のロシア大使館の周りでそういうことがあったとはほとんどは知りません。しかし、映像が放送されたことによって、ロシアの人たちは日本全体がそうだと受けとるわけです。 これと同じことが実はあります。例えば、中国や韓国で反日デモとか反日闘争があって日の丸が焼かれたり日系の商店が襲われたりするということがありました。 昨年の尖閣諸島の漁船の衝突事故とか、そういうことで中国の内陸部の奥地の町でデモが行われ、それを日本のテレビ局は撮影してきて放送します。ですから日本人は、 そういう中国人の姿を見ているわけです。うちの息子は高校1年生ですけれど、彼は中国や韓国は嫌いだと言います。そういう映像を見させられて、且つ又彼らのインタビューを見ると、 日本なんかやっつけてしまえという意見が出たインタビューが放送されますから中国、韓国に対して嫌いだとなってしまいます。ところが、昨日の日本の騒ぎと同じで、 実際には尖閣諸島問題でデモを行っている中国人はごく少数です。中国の大多数の人たちはデモのことは知らないのです。つまり、日本人が中国や韓国に対して嫌いだと思う 感情が増えてきているというのは、おそらくごく少数の中国人や韓国人の映像を見ているということが要因になっていると思います。

マスメディアというのは、私たちの考え方や意見をつくる大きな要因になっていますけれど、よく注意しないとずいぶんつくられた情報で私たちは動いてしまうことになると思います。 そういう情報はまったくいらないかというと、やはりマスメディアというものがあって、様々な情報が手に入りますし、手に入れることによって私たちのものの見方とか知識とか 情報量は増えます。そういう意味では、重要なことではあるのですが、しかし、得られた情報の外側にものごとはいっぱいあるのだということを、ある意味では自分の中の 視野としてもっていないと非常に危険だということがいえると思います。先ほども言いましたが、ロシアの人たちは日本人がロシア大使館を取りまいているという情報をもっているでしょうし、 日本人は、中国や韓国はそういう人たちだと思わされる映像をたくさん見ています。同時にロシアの人たちに映像を流されていることも知らなければ、どこかのほほんと構えています。 そういう意味では、人間は知識によって知性を磨き、知識を蓄えることによって自分で自分をよりよくしていこうと考えているでしょうし、知性によって人間は救われていくと考えます。 しかし、実は人間の知性というものは、知性によってあやまちも犯すし迷いもします。そういうことを改めて昨日、今日のニュースを見ながら感じました。私たちがもっている知性や先入観や 経験則や知識が絶対だというふうに思わずに、それの外にいろんなことがあるのだ、というかたちで自分たちが頼りにしている知性とか知識をもう一回見直すことが、仏教が私たちに 問うていることではないかと思います。

そういうことを考える意味で、今回は『あおくんときいろちゃん』(レオ・レオーニ・作)を紹介します。(読み聞かせがありました・・・)

この本は単純な色あそびの絵本なのですが、レオ・レオーニという人は、オランダのアムステルダム生まれのイタリア人です。お父さんは宝石商でお母さんは音楽家という ある意味では恵まれた、かつ芸術的な環境に育っていきます。そして20歳でノラと結婚します。その頃、イタリアではムッソリーニが政権を執っていて、ファシスト政権誕生に伴い レオニはイタリアを後にしてアメリカに亡命します。レオニはグラフィクデザイナーとして大成しますが、第2次世界大戦が終わった後、アメリカではマッカーシーという議員が委員会を つくります。その時期は、アメリカ対ソ連という東西冷戦状態に入っていました。そして、レッドパージといって、アメリカにいるソ連共産主義者を糾弾して国外へ退去させる運動を マッカーシーが始めます。そのなかで、レオニも標的になりますがマッカーシー失脚後、もう一度レオニは名誉を回復して、アメリカのデザイナー協会の会長もしています。

この『あおくんときいろちゃん』という絵本は、レオニの処女作で、晩年、レオニが50代後半の時、お孫さんのためにつくった絵本です。ですから、はじめから出版しようとか 考えていたわけではなく、お孫さんと色あそびをしながらつくった絵本です。お孫さんたちへのメッセージとレオニが見ている子どもたちの世界への願いがあらわされていると思います。 子どもたちの世界をレオニがどうのように描いたのかというと、同じ色の子をひとりもつくっていません。全部違う色でつくっています。切り絵風に描いてありますからひとつも同じ形が ありません。だけど、誰かがとびぬけて大きくて、誰かがとても小さくてすみっこにいるということはない。みんな大体同じ大きさだけれどもちがう形でちがう色で表現していく。 みんな同じ高さで同じ大きさで出会っていく。そういう形で子どもたちの世界を描いているのです。これは、おそらく、レオニが一人ひとり違う持ち味をもっていて、一人ひとりが 違う色をもっていて、誰かが特別優れている存在感があって、同時にとても仲が良くなると色と色とが混じりあって互いに輝かしあって別の色になって輝くことができるのだ、 ということをメッセージとして残しているのだと思います。ここでおもしろいと思うのは、あおくんときいろちゃんが互いに輝かしあって、親が思っていたものと違う色になると、 この子はうちのあおくんじゃない、きいろちゃんじゃないと言い出します。そうすると二人は泣くのです。つまり、自分の色を自分の存在を認められないということは、全身が涙になるほど 悲しいことだということです。そして、最後にうちの子に戻ったというのですが、親もうれしくてうれしくて、人と人とが交わるということは、互いに輝かしあっていろんな色に 変わるんだということを親が子どもに教えられる。それをワクワクしながら他の親に伝えにいく、という一幕で終わります。そして、最後にみんなが輝きあっていくんだという形で お孫さんにお遊びで描いた絵本がたまたま編集者の目に留まって出版したら世界的ヒットにつながった。これからレオニは晩年絵本作家として30年近くを生きることになります。 彼がおもしろいのは、その後にイタリアに戻るのですが、そのときに「自分を越えるようなものと向き合う崇高な時間を持ちたい」と言ってそれから生涯絵本を描いて1998年に 亡くなります。

レオニがお孫さんたちに願いをかけたように、私たちは、それぞれの色に輝いて誰にも妨げられずに輝かしあっていくような人の世であってほしいということを願っています。 ところが、最近思うのは、そういう願いが本当の意味で生かされない人の世のあり方のほうが多いのではないかと思うのです。絵本の中では、それぞれ違う色があってそれぞれの 持ち味で輝いていく、ということに対してそうだなとは思うのですが、実際私たちの日常、社会というのは、そうではない形で動いています。むしろ、レオニの願いに背いて 社会は動いています。そして、自分にとって好ましい色だけ集めてその色でうめ尽くしたいと考え、すべて同じ色にしようとします。赤や黄色を好んで、そうではない色は一段下だと思います。 そういうかたちで格差をつけて力づくで他の色を押さえようとします。そして、力がない人は片隅で我慢しなければなりません。また、こういうことがおかしいのではないかと問題にして、 立ち上がったり運動したりしても今度は、自分たちの色が正しくて他の色が認められないということも起こってきます。ですから、自分たちの先入観や経験則を絶対にして好みや色を決めて 自分も他人も従わせる。むしろ、レオニが表現したことは、私たちの人間の願いというよりも、レオニが表現したような願いから私たちはいつも問われているのだと思います。 問われてくることに向き合って、問い続けられるということが実は私たちの精神生活を開いてくるのではないかと思います。実は、レオニのいう崇高な時間というのはこういうことを 言おうとしたのではないかと思いますし、こうしたことが宗教ということではないでしょうか。

第69回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2011年1月11日(火) 午後7時~午後8時30分  開催場所:青少幼年センター

お話:白川良行さん(青少幼年センター研究員)

あけましておめでとうございます。通常、新年を迎えると挨拶をしますが、私が今みたいな挨拶をすると非常識だといわれます。

実は、昨年の11月8日に私の母がお浄土に還っていきました。日本では喪に服すということがいわれて年賀の挨拶は控えなさいといわれます。 それでは、喪に服すとはどういう意味があるのでしょうか。辞書には、死の穢れが身についている期間、死を忌み憚る期間とあるように、 もともとは神道の信仰です。ただ、日本に仏教が入ってきたときには神道の信仰があったことから融合しながら仏教を広めなければいけませんでした。 ほとんどの宗派が神仏混合だったわけですが、真宗だけが神社仏閣をかまえなかったので、明治の廃仏毀釈には被害を受けませんでした。 このように、ほとんどの宗派が仏教の主流をなしてしまっているので、いわゆる仏教信者やお寺も喪に服すということを慣習としてきているのだと思います。 喪に服すということが、死への恐れ、死の穢れ、恐れをなしてある一定の期間静かにしている喪中ということが、どういう意味をもつのか、 本当に喪に服するということができているのかと考えます。

私の母のときに感じたことを申し上げると、仏教では慈悲ということがいわれます。慈というのは仏が衆生に対して慈しんでいる、 ポジティブな印象があります。それでは、悲ということばを耳にした時はどう感じますか?私は、戒律を守れない罪を犯しやすい人に対して、 人間というのは悲しい存在だなと仏が見てくださっていると思っていました。ところが母の死を通して感じたことは、9月5日に肺炎を起こして入院し、 93歳で入院したので年をとっての入院はほとんど帰ってこられないと思っていたのですが15日の日に退院してきました。 11日間入院していると歩行も困難になり、介護という大げさなものではないですが、お手洗いに連れていかなければならない等いろいろありましたが、 退院してきたときはよかったと喜んでいました。寝るときは初めのうちは母のベッドの横に自分もベッドを置いて寝ていました。 あるとき音がするので起きたら、母が自分ひとりでお手洗いに行こうとしていたのでこれは危ないと思い、母のベッドの下に布団を敷いて寝るようにしました。 自分を踏まないとお手洗いに行けないようにしたのですが、そのような生活をしていると疲れてきます。疲れてくると、入院したときには助かってくれと思っていた気持ちが、 入院したとき浄土に還ってくればよかったという気持ちになり、母のいのちを自由にしたがっているような自分が見えてきます。 また、母のために行っていることを話すと皆さんから偉いわねと善行を行っている人として見られます。 今度は母のいのちを自分で思い計らっているそういう罪深いことを考えているんだなと自覚できます。 また、自分をいい人間として考えたり居直りとかがでてきます。日常生活の中で鼻高々となっても他人と比較して私はましだなというようなこともでてきます。 いいことをしたとしても他人と比べ自分に満足する罪深さ、根源的罪業性ということを感じました。人間はいいことをしたってそうなんだなということに気づいて道徳的、 仏教でいう戒律的なことをしなくてもしても人間は慢心になっていく。そこを仏は悲しんでいるのだと思います。 人間の存在はそういうものでそこに対して仏は悲しみをもってくださって私たちに慈しみということもあわせてかけてくださっているということに気づかせていただいたとき、 なにか生活の態度は変わらないけれど、心の中でそうしたことがストンと落ちた気になりました。 そのとき母というのはお浄土に生まれて私に仏として関わってきてくれたということになると、私にとって母の死はめでたいことだったのではないかと思います。 気がつかなかったことを気づかせてくれて、それを課題にしなさい、生活のなかでこれを確かめなさいと母は私に伝えてくださったことになると、 会えない辛さやいないことに対しての寂しさを感じるけれど大きなものを残してくださったと頭が下がる思いです。 そうしたときには喪に服すとか忌み嫌うようなことというのは母に対してどうなのだろうか、むしろ母に対して失礼なことなのではないか。 あなたの死を通してこういう課題をいただいてこういう歩みにさせていただくことを、そこから逃れられないそういう存在でしたということに 気づかせてくれた母は私にとって大きな存在として関わってきてくださっているのだからありがたいことなのだと思います。

第68回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2010年12月14日(火) 午後7時~午後8時30分  開催場所:東本願寺総会所

お話:秋吉正道さん(青少幼年センター研究員)

こんばんは。今回は先日読んだ『37日間漂流記』という本のお話をしようと思います。内容は今から10年前に長崎の平戸の近くから小さな漁船で漁に出たおじさんが 途中でエンジントラブルに遭い漂流してしまうお話です。小さな漁船は玄界灘から東シナ海を下って鹿児島を回り四国の太平洋側に流され最終的には伊豆諸島の近くまで 流されていきます。たまたま食糧や水はある程度船に乗せていたけれど、37日分もありませんでしたから最後は悲惨な生活です。また、四国を過ぎて伊勢の外海付近で 台風に直撃されてしまいます。そして、37日目にたまたまハワイへ向かうマグロ漁船から救助されました。この本の著書武智三繁さんは、「すべて持ち合わせで生きる」 ということを考えます。例えば、食糧が底をついた時点で、魚を釣ろうとするけれど餌がありません。だから金具を見つけてきて疑似針を作って魚を釣り上げることを 思いつきます。また、水が底をついた時点で、海水を鍋に少量入れてガスコンロで沸かし裏蓋に付いた蒸留水を舐めて喉の渇きを凌ぎます。そういう意味では、本来、 私たちの暮らしというものは、持ち合わせの中でそれをやりくりしながら生きていくことだったと思います。

現在は、持ち合わせがあっても目についたものはすぐ手に入れる生活をしています。私もお寺にいて、この11月にお寺にくる子どもたちにピザを食べさせたくて、 ピザ窯作りをしました。私の娘は陶芸をしますので、その残土がたくさんあります。最初は、その残土を使ってブロックを積み、その上から残土を練ったものを焼きましたが、 どうもうまくいきません。乾くのを待っているうちに残土が乾燥して落ちてしまいます。そこで、使っていない陶芸窯があったことを思い出しまして、これに段を作って ピザが焼けるようにして炭を使ってピザを焼きました。その中で思ったのは、私たちの暮らしの中で使えるものはたくさんあるということです。ところが、今の私たちは 持ち合わせという考えを捨ててしまっています。本の中で武智さんは、船のエンジンが壊れ、携帯電話が使えなくなり、食糧も水もなくなり、すべてがなくなった時、 ひとつずつ諦めるしかなかったといわれています。諦めるということは、自分が置かれている現実を受け入れることです。私たちは現実を受け入れられないから必死に もがいているけれども、諦めたら今まで見えなかった世界が見えてきます。そして、漂流の途中で8月15日のお盆を迎えます。その時、今は亡きお父さん、お母さんに対して 今年はお盆参りに行けなかったことを思います。でも何故か「助けてください」という気持ちは起こらなかったといわれます。ただ、お父さん、お母さんに対して、 そして今まで自分を支えてくれたすべての人に対して「ありがとう」という気持ちが起こったといわれるのです。

親鸞聖人は「ひるがえる」という言葉を使っておられます。ひるがえることとは転換することです。孔子の言葉に「四つを断つ。意なく(独断的な思いこみをしない)、 必なく(自分の考えを周りにおしつけない)、固なく(一つの意見などに固執しない)、我なし(自分の都合で物事を考えない)」という言葉があります。 孔子はこの四つのことをしなければ正しい判断ができるといっておられます。仏教では「常・楽・我・浄」の問題をいいます。そのことを考えると、武智さんは漂流する中で 諦めるということを通しながら、自分がとらわれていることが何だったのか、ということがよく分かった、そして、自分を助けてくださいということではなく、 ここまで生きてこられたことの喜びと感謝につながっていったのだと思います。

では、私たちの日常はどうでしょうか。根本による問題は、私たちが自らの愚かさを知らないということだと思います。その愚かさを知らない者同士がお互い愚かさに おどらされて争い続けているのではないでしょうか?そして、自分と争い、周りと争い、国と国が争い、争いを作っているのではないでしょうか。今を認めることができない。 現実に置かれている自分のあり方に頷けない。その心が自分を苦しめ悩ませてきているのではないでしょうか?その自分のあり方がひるがえった時、はじめて自由になれる。 そういう世界を親鸞聖人は「浄土に生きる」といわれました。そういう生き方をしようということが「往生」という言葉でいわれてきた世界ではないでしょうか。

第65回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2010年9月14日(火) 午後7時~午後8時30分  開催場所:東本願寺総会所

お話:池田朋行(青少幼年センター)

これまでに幾度となく真宗の教えを聴聞する中で、人生とは自分の思いどおりになるものではなく、いつどこで何が起きても不思議ではない。 ましてやいつどこで終わるともしれない身を生きているということを聞いてきました。そして自分でもそのことについて話しをしてきました。 しかし分かったことにしてしまい、この身の事実としては頷けていませんでした。

昨日と同じ今日があり、今日と同じ明日がある。その日々は一年後までも続いていて、間違いなく一年後も自分は生きている。 自分にとって都合のよい計画しか頭にはなく、まさか死ぬということは計画に入っていません。そしていつしか、いつもと変わらない今日は当り前となってしまい、 そこからは何の感動も生まれません。本来であれば日常の些細なことに感動できるような有ること難し、有り難いとの思いがあるはずです。 しかし私はこの有り難い日常を当り前のことにしていたのだと思い知らされました。

今日は私の母方になる祖母の初七日となります。初七日とは肉親と今生の別れをして通夜、葬儀、火葬と勤め一週間という節目に、 阿弥陀仏の願いとともに故人の死を受け留めるべくお勤めをします。今日が初七日ですから私は9月8日に祖母の訃報に接しました。 明け方に電話が鳴り祖母が静かに息を引き取ったと聞きました。その足で故郷に帰ると祖母を布団から棺に納めたところでした。 これまでであれば「おばあちゃん来たよ」と言うと、この耳や目に分かるように応じてくれましたが、今は静かに目を閉じたままです。

ここ数年来、祖母は寝たきりの状態でした。社会福祉が整い介護施設などもありますが、ほとんど利用させていただくこともなく家で介護をしていました。 家族とはいえ一年365日24時間、気が抜けませんから肉体的にも精神的にも大変な状態でした。家で介護をするという理想やきれいごとだけで済まない厳しく辛い状況もありました。

寝たきりになる前頃から祖母の身体が弱り異変がではじめました。合併症から視力が落ちてきているのではないかと家族や周囲は心配していました。 しかし本人がそのことを認めない以上は、家族とはいえ本人と代わってあげることはできませんから、目が見えないのではないかということには触れられませんでした。

そのようなある日、段差の多い家の中を歩いて移動する祖母に、私は手伝おうと思い手を差しだしました。するといつでもどこでも穏やかであるはずの祖母が 非常な剣幕で私の手を払いのけたのです。想像するに祖母にしてみれば今まで普通に見えていた視界が、段々と薄暗くなってくる不安感と孤独感に苛まれていたのだと思います。 そのような祖母に寄り添えずに、可哀相な人を助けてあげるとの立場の差、健康であるとの優位さを持ったままの行動でしかなかったのです。 心配で気遣いをしたと言えば聞こえは良いのですが、それは計らいでしかなく目の前の人と関係を切り裂き、さらに溝を深くしてしまうようなことだったのです。

寝たきりになってからは、周囲からの呼びかけにも返答ができない状態となりました。久しぶりに祖母に会いに行くと小さくなった身体をベットに横たえたままでした。 いつものように「おばあちゃん来たよ」と言うと、祖母からの返答はありませんでした。しかし毎日のように介護をしている家族は祖母が孫の訪れたことを理解したと見て取りました。

祖母の手足を擦りながら、でもその場に長時間居続けることが辛くなって、忙しいからまた来ると言い残し帰ることにしました。すると弱々しくかすれた声ながらも 「何のおかまいもしませんで」と祖母が言ったのです。きっと祖母は静かに横になってはいたものの、私が着いた時には「よう来たね」と迎え入れ、これまでと同じように 大皿一杯の料理を振舞ってくれていたのでしょう。そして私が帰る時になって、思いの半分くらいのことしかできなかったとの心残りから言葉がこぼれたのです。

悲しいことですが世間では「働かざるもの食うべからず」というようなことが言われます。はたして社会にとって有能な存在である、居ても良い存在ということが 決められるのでしょうか。社会にとって無能な存在である、必要ないものになっていくということはないと思います。

作家の鶴見和子さんが父親の介護生活をとおしての思いを「人間は死ぬまで成長すと寝しまま、言葉を失いし父は示したまえり」と詠んでおられます。 布団のうえで弱っていく父親を目の前にして、寝たきりで言葉も発しないかもしれないけれども、人間は死ぬまで成長するのだと頷いておられるのです。 もしかすると、父親の死ぬまで生ききろうとする成熟の姿から、看護する側が逆に影響を受け多くのことを教わるということまで含めて詠っておられるのではないでしょうか。

どこまでも病を患っている人、亡き人の問題なのではなく、その人と向かい合った私のことが問われているのだと思います。その人から、このことから私は何を受け取り、 そして何を学び取ることができるのか。この状況、この境遇をどのように頂き、私自身を問い直す課題とできるかなのでしょう。

第63回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2010年7月13日(火) 午後7時~午後9時  開催場所:東本願寺総会所

お話:宮戸 弘 (青少幼年センター次長)

本日は、多くの方にお運びをいただき、衷心より御礼を申し上げます。

しばらくお話しをいたしまして、そののち、皆さんからお話しを聞かせていただきたいと存じます。私は青少幼年センターの次長をしています。 6月30日までは、青少幼年センター準備室でしたが、7月1日からは、青少幼年センターになりました。

準備室がセンターになって13日経ちますが、センターとして発足するまでには、大変長い間、「準備」をしていました。 真宗大谷派が青少幼年の皆さんとともに真宗の教えを聞くために、どのような「準備」を整えるべきなのか、スタッフやサブスタッフの先生方、先輩担当者など、 多くの皆さんがその課題に取り組まれました。

準備段階では、青少幼年センターが発足した時に核になる事業として、こうして開かれている「しゃべり場」をはじめ、情報や支援、交流、研究という4つの分野について 取り組む計画を編成してまいりました。

こうした「準備」には、2002年から準備室として8年間取り組みました。しかし、それだけでなく、この8年間よりももっと以前から、 若い年代の方々とお念仏の教えを聞こうという願いが流れていました。この願いの源流がお釈迦様の時代までさかのぼるほど、長い間「準備」されてきたのだと思います。

ところで、日常生活の中でもいろんな準備をしますが、私は「準備」の時にこそ、ものごとの本質に迫れるのではないかと思います。 私は料理をすることが好きなんですが、長い時間かけて料理をしても一瞬で食べてしまうと、食べること(目的)よりも料理をしていること(準備)の方が食べることの 本質に迫っていると感じます。

しかし、逆のこともあります。準備しているうちに「変質」してしまう、ということです。音楽を志していた友人が、仕方なくはじめたバイトで上司に認められ、 音楽の志を捨てたのです。つまり、準備をしている間に原点を見失ってしまったのです。

ですから、単に「準備をする」といっても、とても難しい作業なのです。

むかし、中国に曇鸞さまという方がおられました。曇鸞さまは、すべての大乗経典翻訳を志されますが、翻訳に一生涯の時間を費やしても足らないことが分かり、 仙人から不老長寿の妙技を授かります。つまり、仏教の経典を翻訳するという原点をもっていながら、曇鸞さまは準備の段階で仏教とは性質の違う不老長寿の妙技に 頼ってしまったのです。そのような曇鸞さまを菩提流支という方は厳しく諭します。

菩提流支のような存在が、曇鸞さまを育てたのであろうと思います。原点を見失うことは誰にでもあるのですが、原点を見失っていることに気付かせてくれる存在によって 私たちも育てられるのではないでしょうか。

青少幼年センター準備室がこれまで、原点を見失わないで準備できたのは、共に歩んでくださる方の存在があったからだと思います。 これからも、青少幼年センターは新たな「準備」を続けていきます。私たちの歩みだした原点を見失わないよう確かめつつ、皆さんと共に歩みたいものです。

▲ このページのトップへ