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活動内容

第77回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2011年9月13日(火) 午後7時~午後8時30分  開催場所:青少幼年センター

お話:池田朋行さん(青少幼年センター)

私たちの日常生活とは、健康な人と健康な人との関係だけで済んでしまっていると言えるのではないでしょうか。 もちろんこれは、私の狭い自己中心の見方で、社会生活の一面しか見ずに、それを全てと思い込んでいる誤ったものです。

誤りであるにもかかわらず、私たちの日常は、健康な人としか接しない、それ以外の人のことは意識にのぼらない程に狭いのだと思います。 実際、朝家をでて、夜帰るまでに出会う人は健康な人ばかりのようです。 そして私たちの社会は、そのことに何の疑いもないくらいに慣れてしまっているのかもしれません。

そのためか、私たちは不具合を抱える人と共存できるように心を砕いているとは言い難く、不具合を抱える人が安心して社会の中で生活できるとは言えないようです。 ですから、そのような人の不便さとか、ご苦労などは少しも分からないのです。

建物の出入口のところに、10センチ程の段差があったとします。 昨今のバリアフリーということで改善されている部分もありますが、スロープがない場合もあります。 私がそこを通ったとしても気にも留めないでしょうし、不便と感じることもないと思います。 もしかすると重たい荷物を台車に載せて運ぶ際に気になるくらいでしょうか。

ではそこを車椅子の方が通過するとなれば、どうでしょうか。 偶然に介添えできる人がいればよいのですが、手伝える人がいなければ出入りすることができません。 このこと一つとっても、私の日常感覚というのは、自己中心のものの見方でしかありません。 ですから他人の苦痛など知るよしもありませんし、理解できないのです。

 

近ごろ、甥っ子が手術をしました。 日頃は活発にサッカーをしていますが、家族と離れて一人で入院生活を送ったり、手術を前にした診察を受ける中で不安も募り、元気がなくなっていました。

そして、手術を受けて完治するのかということも気になっている様子ですが、 練習を休んでいることでメンバーから外れてしまうこと、自分の代わりに友だちが活躍していることが、とても気になるらしく複雑な思いも沸いているようでした。

私は、そんな甥っ子を眺めながら、きっと治ってまたサッカーができるようになると思うと言いました。 心のどこかでは、完治しないことだってあるかもしれないと思ってもみましたが、それでもサッカーの試合に出場してボールを追いかける姿が見たいと思いました。 しかし、それは同時に甥っ子がメンバーに戻れば、友だちが試合に出場できなくなることを意味します。 当然のことですが、甥っ子の完治を願い、復帰を待ち侘びるということは、代わりに出場していた友だちの落胆と隣り合わせなのです。

 

これはお釈迦さまのお弟子さんで、目連と舎利弗という二人のお徳、お人柄についての譬え話です。 二人の優れた絵師がいました。 王さまは、どちらの描いた絵が優れているか比べたいということから、向かい合わせに大きな壁を用意させました。 一人の絵師は与えられた日にちを使って一心に絵を描き続けました。 もう一人の絵師は、何時になっても筆で絵を描くことはありませんでした。

王さまは、見事に完成させた絵を見て、とても感心し、これ以上ない素晴らしい絵だと褒めました。 次に王さまは、向かい側の絵を見て驚きました。先に見たものよりも、さらに素晴らしい絵なのです。 しかし、何も描いていなかったのにどういうことなのでしょう。 絵師は言いました。 王さまが素晴らしいと思われた絵は、私が描いたものではありません。 最初にご覧になられた絵がこの壁に映っているだけです。

一人の絵師は美しい絵を描きましたが、もう一人の絵師は、何も描かず向かい側の絵が映る程に壁を磨いていただけだったのです。

 

一人は誰もが感動するような美しいものを作りました。 もう一人は美しいものを映しだす鏡、そのままに受け取ることのできる心を美しく磨いたのです。 これは、どちらが素晴らしいというような甲乙つけがたいということではなく、優劣という比較ではない、それぞれに尊いということを教えていると思います。

自分なりに美しいものを作りだせるよう取り組むということは尊いと思います。 それは、ひけらかすようなあり方ではなく、真摯に取り組む姿勢が美しいと言えるようなことです。 また直接に美しいものを作りだせなくても、友だちの、目の前の美しいものを美しいと感じる心があれば、それは美しさを作りだすのと同じだということでしょう。

このことから、甥っ子にとって、颯爽とグランドを駆け抜けることも素晴らしいことでもあります。 またメンバーから外れたとしても友だちのことを羨んだり、憎んだりするのではなく、グランドの外から友だちが活躍する姿を、 純粋に応援できるように心を磨いて欲しいと思います。 私自身も、甥っ子の姿に優劣をつけて一喜一憂することなく、どのような姿でも尊いと思えるようにありたいと思います。

第76回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2011年8月9日(火) 午後7時~午後8時30分  開催場所:青少幼年センター

お話:池田朋行さん(青少幼年センター)

地震と津波で被害を受けた町の様子を「瓦礫の山」と表現します。はじめは何気なく言葉にし耳にしていたのですが、被害の深刻さ、甚大さが明らかになってくる中で、 津波に押し流され、水浸し泥だらけになった建物や生活用品を瓦礫と表現することに、ためらいを覚えはじめました。 言葉としては間違っていないけれども気になる点があったからです。

粗雑な感覚かもしれませんが、瓦礫という言葉を耳にした時に「ガラクタ」という音と結びついて聞こえてしまうのです。 瓦礫の意味は値打ちのないということですから、そのように連想してしまうのかもしれません。

 

ためらいの根底には瓦礫ではなくて、遺留品というように表現すべきなのではないかと、おぼろげな思いがありました。 ご遺体が発見されていない、埋もれているかもしれない状況からすれば、値打ちのないものが捨てられたゴミの山ではありません。 家族や身内にしてみれば「どうか無事で生きていて欲しい。それが叶わないのであれば、せめて懇切丁寧に埋葬してあげたい」との思いで愛しい人を見つめておられるのです。

品物にしても故意に捨てた廃棄物ではなく引き裂かれたのです。 地震と津波が起こらなければ、今までも、これからも使用するであろう生活用品であり、当人にしてみれば単なる品物ではなく沢山の思いが詰まった愛用品です。 ですから不意に訪れた自然の猛威に、捨てることを余儀なくされた痛惜の念が漂い、今もって使用していた人の暮らしが垣間見えるような遺留品です。

 

しかし泥まみれ、水浸しになっているものの前で、人は無力であることを思い知らされます。 そして痛ましく悲しい光景であるがゆえに、寂寞の感情に胸は張り裂けそうになります。

状況こそ違え何時の世にあっても、現実とはそのように残酷であると言えるのかもしれません。 親鸞聖人は、痛ましさから目を逸らさず、悲しみに流されず、そこからのすくいの方向として 「愚縛の凡愚、屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら、無常大涅槃にいたるなり」 と頷いておられます。

その道理を「能令瓦礫変成金(かわらつぶてを能くこがねになさしめん)」との言葉で確かめておられます。 瓦礫は見捨てられ値打ちのないものなのかもしれませんが、小金に変わるというのです。 これは石が金に変化してしまうような不思議な現象を指しているのではありません。 また石が劣っているものだとか、金が優れたものであるということの価値付けではありません。 どこまでも石は石の性質のまま真価が問われているのでしょう。 煩悩具足の身ながら無常大涅槃に至る身と定まるのですから、私の生き方の上に賜わる方向性と力強さのことです。

 

ですから瓦礫という値打ちのないものと見捨てることではありません。 決して「瓦礫の山」を見て「金の山」に成ると欲の眼で見るものでもありません。 何よりも当事者の悲しみを傍観するように「瓦礫も無くなり、そのうち良いこともある」と言いたい訳ではありません。 痛ましく悲しい「瓦礫の山」は何かを問いかけてくるのです。 私は遺されたものから何を聞き、留められたものの中に何を見ることができるのでしょうか。

それは痛ましさを恨みや憎しみに変えないで欲しい。悲しみを悲しみのままに共感して欲しい。 遺留品からの声なき声を胸に深く刻んだ時に、例え瓦礫と表現したとしても、残骸という意味や侮蔑的な表現の瓦礫ではなくなると思います。 むしろ失っても失われないものを確かめられる瓦礫として異彩を放つのでしょう。

泥まみれになった、水浸しになった不要な品物、値打ちのない品物ではなくて、私に何かを問いかけてくる尊い品物であるのです。 その時には、単なる石、瓦礫ではなく、まるで金のように尊く輝いて頂けてくるのでしょう。

人間のまなこからすれば、優劣だけで人間を判断して、羨んで見たり、打ちひしがれてしまいます。 しかし阿弥陀さまのまなこから見定められると、どなたも一様に「かわらつぶて」であるのです。 痛ましく悲しい現実の中で、つまずいたり、挫けたり、立ち止まり、後戻りしながら「かわらつぶて」の角張った石が丸くなってくるのです。 痛い目に遭ってはじめて、私の尖った角が折れて気付くことがあるのだと思います。

どんなに打ちのめされ、砕かれ、踏みつけられようとも「かわらつぶて」としてのわれらでしかありません。 そのような瓦礫だからこそ肩寄せ合って、支え合って、讃え合って生きたいと力強く願い続けられるのだと思います。

第75回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2011年7月12日(火) 午後7時~午後8時30分  開催場所:青少幼年センター

お話:池田朋行さん(青少幼年センター)

「地球が逆さまになっても人や物は、なぜ落っこちないのですか」という質問がラジオから流れてきました。放送中に電話をかけてきた小さなお子さんからの質問でした。 番組では、このような日常生活の様々な疑問にスタジオの先生とアナウンサーが答えてくれます。先生はお子さんにも理解できるような言葉で、しかも公共放送ですから 科学的にも物理学的にも間違いのない「重力が…」との説明をされます。しかし説明を繰り返せば繰り返すだけ、次第に頷いているお子さんの表情が雲っていくように聞き 取れました。アナウンサーの「わかりましたか」のハキハキとした声と対照的に、ボソボソとした声でお子さんは電話を切りました。

間違いはない解答だったのでしょうが、お子さんの疑問は、そういうことで納得できるようなところから発せられたものなのでしょうか。皆さんならどのように答えられますか。 私ならどうするかと思いあぐねていますが、おぼろげながら思っている言葉があります。「大地はあなたを見離したりしないから落っこちないのかもしれない」とか「地球一周を 生きとし生けるものみんなで円く手を繋ぎあっているから」と言ってみようかなと思っています。

ところで「地球が逆さまになっても人や物は、なぜ落っこちないのですか」という私たちの疑問の前提として、また問いを聞いた時に頭の中で浮かんだ映像とは、どのような 状態ですか。きっと地球儀のようなものの上に人が立っていて、垂直方向の下側で人が地球から離れて落下していくようなものではありませんか。それで私はどこに立っている 状態なのかと言えば、たぶん上なのではないでしょうか。下にいて落ちるのは他人でしょう。私が落ちるとの心配があったとしても地球の北半球が上で、そこに立っている私が、 下へ半周回転した状態で落っこちるように思い描いているのではないでしょうか。実はここに私の自己中心の思いが潜んでいるのです。

自己中心の思いで、自分は上に立ち、他人を下に見ているようです。そして勝手気ままに、自分の都合ばかりで、他人の迷惑は顧みることはありません。もっとも地球に上下は ないはずなのに、北半球を上にしか思い描けないのは、北半球に住む人間の自己中心の思いでしかありませんし、不思議とは思わない程に既に刷り込まれているのです。

日本の仏教の行事にお盆があります。8月15日を中心にしたお盆は、日常用語としても夏休みをお盆休みと言い慣わします。地域によっては、一ヵ月前の7月にお盆として 勤めるところがあります。お盆は、父母、祖父母、亡き祖先を静かに偲びながら、その方々から教えていただいた願いに添って生きているかと自らに問う仏事です。このことから自恣の 日というように表現します。一年間、自らほしいままに生活してきたのではないかと、自恣の日にあたってあらためて顧みるのです。これは単なる反省ではなくて、過去・未来・現在を 顧みるということです。

「地球が逆さまになっても人や物は、なぜ落っこちないのですか」という疑問を思い返してみると、私が上に立ち、他人を下に見て、自らの欲望だけを満足させるためだけの 視点しか持ち合わせていなかったのです。自恣ということからすれば、申し訳ないとの謝罪の気持ちで、私は転落してもおかしくない、救われない程の暮らしをしてきたと顧みられる ように思います。

自らほしいままに暮らすということとお盆を考えるうえで、熊本県の民謡に五木の子守唄があります。山村の貧しい家に生まれた少女が地主の家に奉公にだされて、赤ちゃんの 子守りをしながら歌ったという背景があります。歌詞には「おどま盆ぎり盆ぎり盆から先ゃおらんど盆がはよ来りゃ早よ戻る」とあります。「あたいの奉公も盆まで盆までだ盆を 過ぎたらここには居ない盆が早くきてくれたら早く故郷へ戻る」という意味でしょうか。

子守唄ですから、赤ちゃんを寝かしつける唄と思われるかもしれませんが、五木の子守唄の場合は守り子の唄と言って、お守りをする子どもの唄ということなのです。子守りを する少女が自分の不幸な境遇を憂いながら、赤ちゃんに子守唄を聞かせるようにして、自らへの慰めとして歌っていたのです。奉公人が愚痴や妬みごとを口にできるわけがなく、 子守唄にカモフラージュしていたのでしょう。

「盆を過ぎたらここには居ない早く故郷へ戻る」とありますが、帰られる保障はなかったと思います。嫌な言葉ですが「口減らし」として、両親と別れ、住み慣れた家を離れ 奉公にだされたのですから帰られるはずもありません。そめて両親の苦しみを自分が肩代わりをすると、逃げだしたい思いを小さなこころに仕舞い込んでいたのでしょう。誰を恨んで みても仕方のない境遇を一心に受け止めていたと思います。だからこそ、本当はここには居たくない、戻りたいと胸が張り裂けそうになる気持ちを子守唄として歌わずにはおれなかった のです。

少女の状況は帰るに帰れないものだったのでしょうけれども、子守唄は恨み言や泣き言ではなかったと思うのです。人間関係や社会制度の中で虐げられている者の静かな叫び でしょう。地主と奉公人という上下の関係で、下に見られ虐げられている少女の叫びです。単なる恨みつらみではなくて、上下関係だけは終わらないものを求めていた叫びだと 思います。

ラジオのお子さんの質問に、私ならどのように応じるかと考えている「大地はあなたを見離したりしないから落っこちないのかもしれない」「地球一周を生きとし生けるもの みんなで円く手を繋ぎあっているから」という世界は少女の叫びのように上下の立場を超えて、生きとし生けるもが出会えるものになると思います。

第74回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2011年6月14日(火) 午後7時~午後8時30分  開催場所:青少幼年センター

お話:井上正さん(同朋会館研修部補導主任)

今、私が仕事をいただいているところは、同朋会館といいまして、全国からお出でになるご門徒の方が東本願寺で2泊3日の本廟奉仕の生活をしています。 夏には小学4~6年生を対象とした子ども奉仕団という、子どもたちと一緒にほとけさまの教えを聞いていく場所が開かれます。そこに関わるスタッフの人たちが 子供たちと一緒に生活する中で、「つながり」ということが問題になっています。親と子というつながりや友だちとのつながり、学校であれば先生とのつながり、 講師とスタッフやスタッフ同士のつながりなどが問題になっています。

つながりを自分の方から切ってしまったり、仲間に入らないと切られていくようなつながりが問題になっています。また、無縁社会という言葉でも表されるような、 時代に象徴されるつながりの問題があります。

つながりのしんどさを感じるなかで「いったい何のために生まれてきたのだろうか」と思うときに、その「つながり」ということについて、友だちやまわりの人との つながりの関係そのものが、自分の側から見たときと、まわりから自分が見られたときなど、問題を考えていく眼はどこにあるのだろうか、ということを思います。

いのちの事実から見てみるとどのようにみえるのか?それは私たちが生きているということは、「すでにつながりの中に生きていて、つながりを生きている。」 ということです。しかし、そのことによって、「自分の思いでみていると、つながっているようにはみえない」という私自身の物事の見方に問題があるということを つくづく思い知らされます。

親鸞聖人は「煩悩にまなこさえられて 摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり」というご和讃をつくられていますが、 煩悩に眼(まなこ)を障(さ)えられるということは、自分の思いによってあるがままの姿を見ることができない。そういう見方をしている私自身のあり方が 指摘されています。そのことを思うときに、すでにつながって生きあっているにもかかわらず、そういう事実が見えない、そういうことを思うのです。

そのことは、この人はこういう人だと自分で決めてみていることに起因しています。本当にそのひとそのものかどうか理解しようとせずにです。自分で、 なにげなしに決めていることが、同時に改めて見直してみようということを失っていくのです。

今年は、親鸞聖人のご法事の年でもありますから、親鸞聖人のご生涯のことを勉強したりしておりまして、折々に「愚者になりて往生す」という言葉を繰り返し お聞きします。仏さまに照らされてみると自らのあり様の愚かさが、個人的な愚かというよりも人間そのものの持っている眼の暗さ、そういうことを教えられている 言葉だと思います。

今年に入ってから親鸞聖人の御遠忌の直前に大きな地震がありました。人間であれば何かボランティアをしなければならない、というような世の中の雰囲気に、 なかなか行動できない自分に負い目を感じたりしていました。また、阪神大震災の時は、ご縁があって先輩に呼びかけられてボランティアに行きましたが、行ったことを 誇ってみたりしているような自分を思う時に、何かいろいろな縁にもよおされて生きていることを思わざるをえないわけです。

親鸞聖人が「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」と言われたお言葉に帰っていくと、どういうご縁が自分のところに起こるか分からないけれど、 ご縁があったところで右往左往している自分の姿を思い知らされる。そういう意味では、ボランティアをできるご縁がある時には、行ったことを誇りに、できなければ できないで卑屈になってみたりするような、そういう自分の根性を振り回して生きているということをつくづく思わされます。それは、自分だけの問題ではなくて、 まわりの人たちを見ていてもそういうことに振り回されて一喜一憂している。そういう意味でいえば、縁にもよおされるということは本当に深いなぁと思うわけです。 縁にもよおされ、受け止めていなければ、深さというものは感じないわけで、できる時には喜んだり、できない時には卑屈になったりすることをもっと深いところに 突きつめていった時に、やっていることが続けられないとか、悲しむにしても悲しみきらないようなそういうところに耳を傾けていく時、人間はいったいどうして いろんなことに一喜一憂して生きているのだろうかと思います。

そういう自分を呼びかけてくるような声をふと自分を揺り動かすようなかたちで、問うてくるものがあるのです。そういうことにあう時に、親鸞聖人がお手紙の中で、 「世にくせごとのおこりそうらいしかば、それにつけても、念仏をふかくたのみて、世のいのりにこころいれて、もうしあわせたまうべしとぞおぼえそうろう」 何か世のくせごと、個人的なことも含めてと思うのですが、個人的な悲しみというよりも、もっと深いところ、人間そのものを悲しみ痛むようなそういうところに、 それが世のいのりだと感じています。和とは不和の悲しみであることを感じます。それが個人的な問題よりも、もっと深くて、自分自身を支え、揺り動かし、 呼び覚ましてくるような、そういう世のいのりが念仏ということではないかと最近思います。そういう念佛を親鸞聖人は私たちにすすめられているとおもいます。

そういう人間そのものを問うてくるようなはたらきに出遇う時にあらためて自分自身が自分自身の思いに縛られていることを教えられることが、仏教が教えてきた 大切なことであり、私たちの先輩方が仏教の教えを尋ねてこられた理由がそういうところにあるような気がしてならないなあと最近思っています。そのことが 世のいのりということの中に多々自分の思いにしずまない、しずみこませないような人との出遇いということを大事なこととしていただいています。

日頃はそういうふうにして、人を見出していくようなことができないのですが、よくよく今までの人生を振り返ってみると、自分自身がそのようにして人を見出す前に、 先輩やいろんな先生が私自身に聴聞の場に出てこないかと呼びかけてくださったり、祖父や祖母がお勤めをしている後姿から呼びかけてられていた。常に呼びかけられ続けて いたんだなと思います。そう思う時に自分の関心で人を見ていたことが、非常に恥ずかしいことだったなあと思うのです。呼びかけられていたことに気がつかないで、 恥ずかしかったなあと思うことが、先程ご紹介申し上げた「煩悩にまなこさえられて 摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり」そういう ご和讃のところにあらためて頂かれてくるように思います。本当に、私たちは、物事をきちっと見たり聞いたり受け止めたりするこができません。私がいろいろな縁にも よおされて、あらゆる人たちから順縁とか逆縁という、自分の受け止めやすいことは順縁、受け止めにくいことは逆縁ということになるのでしょうけれど、順縁、逆縁も含めて いろいろな人たちから常にお呼びかけをされ、お育てをいただいているそういう世界だったんだということを最近つくづく思います。

そういうことを思うとあらためて、身のまわりにいる人、今までちょっと出遇ってきた過去の人や、これから出遇うであろう人々、そういういろいろな人を見て、 何か表立って拝むことはできないですが、一人ひとりを大切におがめるような生き方ができればいいなぁと最近感じています。そのことが、浄土真宗という教えをいただいて いる先輩方が同朋という言葉を大事にしてきた歴史であり、念仏の僧伽を見出したり、また、自分自身も見出されたりしながら、場を開いてきたのでしょう。今、改めて 真宗門徒の伝統をいただき直していきたいと感じています。

第73回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2011年5月10日(火) 午後7時~午後8時30分  開催場所:青少幼年センター

お話:秋吉正道さん(青少幼年センター研究員)

東日本大震災の被災地にある大量の瓦礫を見た時、この瓦礫を一体どうするのだろうと思いました。 その時、自分の手元、足元にあるものからまず手をつけてみる、 もっと言うならば、行動を起こしてみることが大事だと思いました。 行動を起こしてみることから物事が進んでいくのだと。 どれだけ立派なことを考えても行動を起こさないならば、 何のはたらきも出てきません。 物事を起こすということ、行動することから生まれてくるものがたくさんあります。 行動を起こさない限りは瓦礫、木切れ一本でも動きません。 木切れを動かすという行動が、いつかあの瓦礫をまた再びもとの世界に戻すのだろうなとすごく感じました。 私は先月被災地から戻ってきて自坊の駐車場の草むしりを始めました。 駐車場には何万本の草が生えています。 その草を一本ずつ手作業で抜いていきます。 この作業を一ヶ月続けました。 瓦礫と同じで気が遠くなる作業でした。 作業をしていると 朝7時過ぎに近所の小・中学生が駐車場の前を通っていきます。 子どもたちは「いつお寺のおじちゃんあきらめるかな」と思っていたと思います。 草むしりをしている時、 日中は暑いし指は痛くなるし途中で何度も嫌になりました。 でも私は、子どもたちに自分のやれることをするという姿を見せたかったのです。 行動を起こすと責任がでてきます。 途中でやめてしまったら、子どもたちに、「やっぱり大人もすぐあきらめるんだな」「何万本も草むしりをするのは馬鹿げたこと」と思われてしまいます。 だから、そんなことは 思わせたくないという気持ちが起きてきて草むしりをし続けました。 今回の震災で「私にできること」ということが言われていますが、自分の行動を起こすということからでてくる 責任をどう果たすかということをすごく感じました。

先月、被災地に行ったことで、松尾芭蕉の『おくのほそ道』を読み始めました。 松島に行った時に芭蕉を思い出して、どんな気持ちで松島を見たのだろうかということを 思い読むことにしました。 『おくのほそ道』は「月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり。 」という序文により始まる紀行文集です。 読みながら、芭蕉は一体何を 求めたのだろうかということを思いました。 やはり、芭蕉は、世捨て人みたいな雰囲気を出しながら「世に生きて世を越える」そういう世界を求めたのだと思うのと、「無常」というのを 自分の身に味わいながら歩いていったのだなということを感じました。 芭蕉は、生きるということは旅をすることだと言い切ります。 人生の旅をそれぞれが歩んでいるという言い方を します。 ただし、その旅というのは、例えば私は今日午前中まで熊本にいました。 そして、飛行機に乗って夕方京都にいるわけです。 熊本にいたのが今は京都にいる。 要するに、空間を違う空間に いる。 空間を旅するというのは空間の移動でしょうか。 芭蕉は違うと言います。 空間の移動とは時の移動なのだと言います。 場面の移動と時の移動、これが旅なのだと。 だから、人生は 旅なのかと言うと、人生は場面が絶えず変化していくと同時に時も変化し続けていく。 一瞬一瞬の時が変わり続けていく。 生きるということはそのまま旅なのだということが 『おくのほそ道』の序文なのです。 私たちは、無常の中にしか生きられないのだから、ここにいるから安全ということはないですし、ここにいるから絶対間違いないということも ないわけです。 あらためて無常の中を生きるということを旅を通して、人がこのいのちを生き抜くということはどういうことか。 同時にそれは、特別なことではなくある意味当然の ことなのです。 一瞬一瞬、これは因縁の問題に通じるけれども、それぞれの縁というのは旅の途中で出遇うもの、縁によって変わり続けていく。 そして、変わり続けていく我とは何なのか。 それが実は私たちのいのちだと思います。 いのちを生きるというのは、何か特別扱いするけれども、極端に言えば、縁と無常性の中から外れることができないものです。 例えば、芭蕉が 旅した時代ですから、宿にありつけなくてノミにくわれながらもう少しいい所に泊まりたかったとか、粗末なものしか食べられないともう少し美味しいものが食べたいなと思うのが世間です。 世間の中に身を置くことが現実です。 しかし、世間の中に身を置きながら出世間を生きようとする。 そういう意味では、芭蕉が『おくのほそ道』を通しながら「白道」、 もっと言うならば「中道」、親鸞聖人の言葉でいうと「非」の問題。 「非僧非俗」の「非」。 そういう世界を芭蕉は旅をしながら求めたのではないかと思います。 私は、たまたま 被災地に行った時に、逆からですが、芭蕉の歩いたコースの一部分を歩きながら芭蕉を思い出しました。 芭蕉は『おくのほそ道』の中で松島の句を詠んでいません。 作れないと 言い切ったそうです。 後になって江戸時代後期に 「松島や ああ松島や 松島や」 という句が狂歌師の田原坊によって作られましたが、芭蕉は松島の美しさを前にして、言葉にしたら全部嘘になってしまうと思ったのでしょう。 結局、芭蕉は俳句という世界を通して 求道者だったし、残念なことに長崎への旅の前に亡くなります。 芭蕉は『おくのほそ道』を通しながら、世間と出世間と言われる間を歩もうとしました。 私は、震災の縁であらためて芭蕉が 求めた世界を考えることができました。 芭蕉は僧侶でもないし、一介の俳諧師だけれども、求道するという旅をした芭蕉を、あらためて僧侶と名告っている私は一体何者なのか、あの求道心は どこにあるのか、何故、旅をすることに、いのちを「かける」ことができたのかということを思います。 「かける」というのは信頼することですから、そういう信頼を私は南無阿弥陀仏の 世界に感じとれているだろうか、ここ一ヶ月いろんなことを感じながら生活していました。

第72回「東本願寺しゃべり場」
開催日:2011年4月12日(火) 午後7時~午後8時30分  開催場所:青少幼年センター

お話:秋吉正道さん(青少幼年センター研究員)


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荒れ果てた大地(陸前高田)

こんばんは。一ヶ月ぶりに京都に来ました。この10年、一週間に一度は京都に来ていましたので、一ヶ月来ないと遠い地に感じてしまいます。 この一ヶ月は、特に、東日本大震災が3月11日に発生して、皆さんもいろいろな思いをしながら過ごしてこられたことと思います。

 実は、先週の土曜日に被災地から熊本に戻ってきました。一週間、岩手から南下して仙台まで被災地を歩いてきました。本当は、地震が発生して すぐに飛んで行きたかったのですが、お寺のこともありますし、被災地の状況も分からないということで、3週間悶々としながら暮らしていました。 地震発生の翌日から、お参りや御法事に行くときには募金箱を持って活動をしていました。それでもじっとしていることはできなくて、周りから歳を 考えてと言われるかなと思いながら被災地に行くことを決めました。私自身、20年以上前の湾岸戦争の時からずっとそういう活動をやり続けて きましたし、昔は熊本の大谷派・本願寺派関係なく若い僧侶たちを中心として、市民運動をしている人たちと一緒にハンストをして3日間食事を 抜いたり座りこみを行ったりしていました。あの当時は、いろいろな仲間がたくさんいました。もう20年経ちますと高齢化といいますか、 ある程度自分の生活がでてきて自分の家族のことやらでそういう動きをだんだんとらなくなってきました。


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脅威の時を刻む(大船渡)

そういう経験の中で、湾岸戦争の時は、 新聞やテレビの取材がきていまして、その時「何故、反対するのか」と聞かれたときに、一つのキーワードとして、「原子」ということ、福島原発の 原子ではなく、「もともとある力」を重視することを伝えてきました。ですから、「石油が手に入らなければどうするのだ」と言われた時、木でも 薪でもご飯は炊けるではないかという論理に立っていました。「石油がなければ私たちの生活ができないというのは嘘なのだ」ということが一番ベースに あって活動を続けてきました。もちろん、いろいろな批判もありましたし、活動をする中で環境問題であったり、いろいろなことを考えさせられたりも しました。ただ、すごく嫌になったのは、ベースにあるものが何なのかと考えたときにヒューマニズム、人間愛の限界を感じました。ヒューマニズムの 限界です。どこまでもヒューマニズムでしかありえないと分かったとき、私は市民運動的なものを止めようと思いました。奇しくもその後、阪神大震災が 発生しました。その時もやっぱりじっとしていられなくて、若い子たちをマイクロバスに乗せて何度も神戸に入りました。最初に入ったのはカトリック教会の 支援活動をする団体でそこをベースに活動ました。その時、神戸で感じたことは、「都市化する」ということです。大都市になるということは人と人とが つながらないということです。例えば、あるお年寄りが「電気がないからご飯が炊けない」と言われるのです。ご飯を炊こうと思えば、空き缶でも竹でも 牛乳パックでも炊くことができます。いろいろな方法があるのに考えられないのです。そういうことが阪神大震災の時には起きていました。


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慈愛の鐘に(南三陸)

私が今回の地震の被災地に行くことを決めて、そのことを知った人たちから「何を持っていかれますか」と聞かれましたが、ワゴン車で行くので物資を たくさん積めるわけでもないですし、行く以上は自分が食べるもの、寝るもの、衣食住は決して現地に迷惑をかけないと決めていました。ですから、食料から ガソリンからガスコンロからすべて持ち込みで行くのを原則としています。基本的には自分の暮らしをそのまま持っていく形です。それでも一週間行くとなると、 それだけで荷物が多くなりますし、ガソリンだけで200リットル近く持っていきました。帰って走行距離を見るとトータルで3,600キロ走っていました。 そういう中で、地元の役場の職員、近所の方たちから歯ブラシやタオルといった生活の中でどうしても必要なものだけ預かって持っていくことにしました。 食べ物では、ソーメンです。少し湯がけばすぐ食べれますし、熱量もあまりいらないですし、水も何度も使えますし、温かいみそ汁などにちょっといれる だけでも温まれます。そして、被災地は寒いと聞いていたので、手袋やカイロも持って行きました。


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焦土の街(気仙沼)

被災地を歩いていて感じたことは匂いしかないということです。香りではなく匂い。焼けた匂い。土の匂い。海の潮の匂い。空気は冷たく重く、がれきの 山にはひとつも温もりも優しさもない。無差別にいのちを奪った跡でした。そういう中であらためて「南無阿弥陀仏」とは何だったのか、ということを考え させられました。福島の原発事故のことを思うと、私たちはいのちを分断していく生き方をしていたのではないでしょうか。確かに、私たちの生活を便利に 快適にしてくれましたが、それだけを求め過ぎていたような気がします。南無阿弥陀仏を通して温もりを感じたり、愛情を感じられるような世界を生きようよ というのが親鸞聖人の世界です。そういうことを問いかけられたのが、この震災だったのではないでしょうか。たまたま震災が宗祖の御遠忌の年に 起きましたが、どのような世界を生きたいのか、という親鸞聖人からの問いかけが、これからの手がかりになるのではないかなと思います。

【3,600キロの行程】

4月4日 仙台教務所~花巻市~遠野市

4月5日 宮古市(善林寺)~釜石市(寳樹寺)

4月6日 釜石市~大船市~陸前高田市

4月7日 気仙沼市~南三陸町~塩釜市~松島~仙台若林区~仙台教務所

4月8日 高田教務所

4月9日 帰坊


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大好きなぬいぐるみ(宮古)


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波の力(大槌)

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