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3.「私」に真向かってくれる「掛け替えのない「子」」の声を「今」聞く

髙栁 正裕(名古屋教区)

こんな子は、いなかったらよかったのに

 自分に初めて子どもが誕生した時、あなたは何を感じたでしょうか。父親と母親では感じることは違うでしょうし、子どもが欲しくて努力をして、ようやく授かって喜びはひとしおということもあるでしょう。そうかと思えば、それまでの自分の人生や境遇によっては、子どもが生まれたことを、素直に喜べないということもあるかもしれません。

  生まれた時に色んな気持ちがあったとしても、一旦この子を育てようと決意してからは、やはり将来幸せになって欲しいと思って、一生懸命子育てをしていると思います。しかし、子育ての只中にあって、時に「何やってんの」と怒鳴ってしまうことがあります。そうやって怒鳴るのは、この子の将来の為を思ってのことだと、自分に言い聞かせたりもしますが、本当のところは、自分のイライラをぶつけていることがほとんどではないでしょうか。時にはそれがエスカレートし、あげくの果てには「こんな子は、いなかったらよかったのに」と爆発することがあるかもしれません。

孫との別れによって気付かされたこと

 ではイライラせずに子どもを指導できていれば、それで果たしてよいのでしょうか。この子の為、この子の将来の為と思って子育てをしている時、何かが欠落しているのではないでしょうか。そうです、それは「今」ということです。

 お孫さんを交通事故で亡くした、あるおじいさんのお話です。ある朝、中学校に自転車で出かけるお孫さんに向かって、「ちゃんと勉強してくるんだぞ」と言って、送り出しました。するとその直後にお孫さんは、路地の出口で車にはねられて亡くなってしまったのです。その悲しい出来事がきっかけとなって、そのおじいさんは真宗の教えを聞きに来られるようになりました。「ちゃんと勉強してくるんだぞ」と、その時おじいさんがかけた声は「将来の為に、いい学校へ進学して、良い会社に入れば、この子は幸せになれる」という、お孫さんの幸せを思っての心から出たものでした。決して冷たい心から出たものではありません。でもそのおじいさんは、お孫さんとそのような形で最後の別れをしてしまって気が付いたのです。孫に善かれと思って励ましたり心配をしたりしてきたけれど、孫の、その時その時の、「今の心の声」が本当に聞こえたことがあっただろうかと。

子どもの心の声

 子育て真っ最中の時には、親は仕事や家事があってゆとりがありません。職場でのトラブルや夫婦間の問題などで溜まったストレスを、言うことを聞かないということでしか自分の意思を表現できない幼い子どもに対し、「躾」という形でぶつけてしまいがちです。それに対して、おじいさん・おばあさんは、子育ても仕事も一段落して精神的にゆとりができ、おおらかに孫の相手をできると言われます。しかしお孫さんを亡くしたそのおじいさんは、孫が可愛くて、孫の将来を楽しみにしていたが、実は一方的に孫のことを可愛がっていただけで、孫の心の声が聞こえていなかったということに気付かれたのです。

  ゆとりのある祖父母でさえ、孫の心の声を聞くことができない。ましてや子育て真っ最中の現役の親が、子どもの心の声を聞くということは本当に難しいことなのです。

一つの時間・世界を生きる

 ここで自分自身に立ち返ってみましょう。自分は子どものころ、親に本当は何を求めていたのだろう。親に対してどんな時に嬉しかったんだろう。どんな時悲しかったんだろう。嬉しかったのは、欲しい物を買ってもらえたり、褒めてもらえた時かもしれない。でも一番嬉しかったのは、自分の心をわかってもらえた時であり、悲しかったのは心を感じてもらえなかった時ではないでしょうか。そしてひょっとしたら、親にわかってもらえなかったという怨みを、今でも心の奥底に抱えているのではないでしょうか。

 そうです、私自身が子どもの時に感じていたことが子育てのカギになるのです。本当に嬉しいのは心をわかってくれることです。わかってくれるだけでなく、もっと嬉しいのは、心が通う、触れ合うことです。「わかる、わからん」を超えて、心の声、存在そのものが感じられる、それが聞こえるということです。不思議なことですが、子どもの心の声が聞こえる時、親と子が一つの時間・世界を生きることができるのです。

捨て身の訴え

 親も子どもも、一番つらいのは孤独です。これは親子関係においてだけのことではありません。心が通じないことが人間には一番辛いです。しかし、赤の他人は私に捨て身でぶつかってきてはくれません。配偶者との関係であっても、「この人とはもうだめだ」と諦めてしまうこともあるでしょう。しかし子どもだけは、親である私に向かって真っすぐにぶつかってきてくれるのです。だからこそ激しく反発してもくるのです。子どもが荒れるのは、「世間体とか将来の心配とかでなく、今、真っすぐこっちを向いてくれ」という捨て身の訴えなのです。こんな捨て身で向かってくれるのは、実は我が子しかいないのです。

親子である事の無条件の喜び

 親は、大人という立場から未熟な子どもを指導しようとするのではなく、この世において私に、真っすぐに真向かってくれる掛け替えのない存在として子どもに向き合い、その存在の声を、心の耳を澄ませて聞くとき、そこに親子が出会い、孤独が解ける時空が開け、親子であることの無条件の喜びが「今」湧き起こるのです。

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