4.― エール ―

北條 邦康(大垣教区)

1 問うこと

 「父(母)は、お浄土に往けたよね、お浄土で会えているよね」や「お浄土から見守ってくれるよね」などの会話を耳にしたことはありませんか。あるいは、尋ねられて言葉に困ったことはないでしょうか。

 お寺を託されている私は、こういう問いに、実に苦しんでいます。そして、場の空気を察し、おさめたように逃げてしまうのです。自分に言い訳をしながら……。
 私たちは幼少期より、場の空気を読むように訓練されていて、社会から求められる一種のスキルとしてそれは重要視され、上手に順応するよう癖になっている、といっても過言ではないでしょう。また、明確さを出さない曖昧さが好まれると学習しているからか、相手の気持ちをおしはかれる優しい人、賢い人と相対的に評価されます。それなのに時として身動きが取れなくなり、言葉を濁し見失う。そしてただ、苦い反すうを繰り返し逃げ去るのです。
  しかし、こんな私に門徒のみなさんは「ごえんさん(住職)」と声を掛けくださいます。気づかってくださいます。

2 学ぶこと

 それはなぜか。どうしてなのかと考えていると、ある言葉が思い出されました。それは、十六世紀フランス王宮での貴族の恋愛小説『クレーヴの奥方』にある「好きな男の最も曖昧な言葉でさえ、好きでない男の明白な言葉よりも心をかき乱すものである」という言葉です。

 幸か不幸か、この言葉の前者の立ち位置にいるのは私のようです。このような状況の中で赦されてしまっているのです。いや、本当は赦されているのか。都合でころころ言い分を変える私を、言葉を、誰が赦すというのか……。こんな私に、忖度して協調路線へと言葉を運び、この空気感における最も無難な着地を選んだ言葉は生きたものとなっているのか。見せかけた寄り添いと見透かされているのではないのか。それなのに今も、やり過ごせるという楽観に逃げ込んで向き合わない。ましてや変に気をまわして、自分と相手の弱みに付け込むまいと心を醒まさせて、身構えよと言い訳をするのです。それでも、笑顔で「ごえんさん」と門徒さんは気づかってくださるのです。

 なぜならここには、先人が築いてくださったものがあるからです。歴史の積み重ね(信頼、信用)があるからです。だから前者なのです。分かっているのです。私という個ではないことを……。

 私も自身の家族の死に直面した時、悲しみや不安、後悔や空しさ、怒りや無力さ、などの入り混じった複雑な感情の中で、慣れない非日常の緊張に襲われたことがあります。

 「諸行無常」と頭では理解していること、すでに学んだことのはずなのに機能不全、分離不安を起こしたのです。頭でっかちなだけなのです。経験を積めば解決されるようなことではないのです。常にライブであり、同じことの繰り返しではない場なのですから。事象は同じように見えても、環境や過程、思いはひとつとして同じではないのです。私のときとも違う……。「私は私で、あなたはあなた」なのですから、寄り添える、分かり合えるなどと思うことが厚かましいのです。無理に相手に寄せにいき、寄り添えているとおごっている。だから、ごまかした、はぐらかした言葉しか出てこない。本質をずらしたような言葉でなんとなく感を醸し出して、その場から逃げ出すことしかできないのです。

3 いいと感じられるまでに

 私に何かあるのか。いや私には何もない。何もない私。私には「何もないことを智る」以外にはないと気づく。それなのに私は存在できている。何もない私がしっかりと立っている。こんな私を立たせているものは何か……。それは、「ごえんさん」と気づかってくださる門徒さんです。
  この関係性においてのみ、私の存在は赦されている。しかし、門徒さんが本当に大切にしているものは、私という個ではない。私が相続したものにあります。私の背景に「信頼、信用」というご縁がつながっているからです。それは、『御文』に「ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは 称名念仏すべきものなり」(『真宗聖典』833頁)と蓮如上人が示されるように、阿弥陀仏の本願をその身にしかと受け止め、この私にまで届けてくださった無数の先人のお称名のつながりです。私の存在は、先人の願いのつながりなのだと気づかされると、もう一日中「お念仏」を惟い続けることしかないのです。

 「惟」は親鸞聖人がお作りになられた『正信偈』の「五劫思惟之攝受」(『真宗聖典』204頁)にあります。これは法蔵菩薩が永遠ともいうべき時間をかけて、すべての人が救われる道を深く深く願われたことをあきらかにされているのです。さらに『歎異抄』では「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」(『真宗聖典』640頁)と、わが身のこととしてとても重くいただいておられます。
 「何もない」私は、真宗の願いと教えに包まれながら、ひたすらうなずき惟い続けていくしかない。この惟いをご縁として、歩む姿以外にはないのです。相続したものとして、不安や心細さを私自身への問いかけとして引き受け、ただ、願いと教えにうなづいていくことしかない。このことだけを、この一点だけを何度も何度も反すうする。そして、ご縁とともにお念仏をいただいて生きていこうと思うのです。

※タイトル「エール」には、英単語のyell=エールを送る、ail=苦しめる の意味をこめています

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