5.認めてくれること

草野 萌(九州教区)

SNS中毒

 私は今、SNS(会員制交流サイト)にハマっています。毎日、自分の食べたご飯をSNSにアップしています。ハマっているというより中毒なのかもしれません。みなさんはSNSを使っていますか? 使っている方はどのように使われていますか?

 こんなSNS中毒の私が言うのも変ですが、最近、世間で流行するSNSの傾向に疑問を抱くことがありました。それは、ある人の投稿を「いいね」や「シェア」をすると、その投稿主が抽選で現金をプレゼントしてくれるという企画についてです。その企画は流行し、多くの人が「いいね」や「シェア」をしました。私も「いいね」や「シェア」をしようか悩みました。しかし、そのとき漠然と「誰のために、何のためにSNSをやっているのだろうか」と思ったのです。

 みなさんは何のため、誰のためにSNSをしていますか。それぞれに理由があると思います。例えば様々なジャンルの情報を仕入れるため。知り合いや友だち、芸能人が何をしているのかを知るため。そのほか自分が今何をしているか、何を考えているかを発信して知ってもらうこともできます。

認めてほしい

 私が気になっているのは、自分が発信をして「いいね」をもらうということの中に「認めてもらいたい」という気持ちが見え隠れすることです。現金をプレゼントするという企画も、この「認めてもらいたい」ということが背景にあるように思うのです。多くの人に「いいね」や「シェア」をしてもらい、注目を浴びたい、認めてもらいたい。そうして企画に賛同して「いいね」や「シェア」をした人も、企画した人の欲求の中に取り込まれていっているような気がします。

 私は一体、誰に何を認めてもらいたいと思っているのだろうか。SNSに疑問を抱く中でこんなことを考えるようになりました。先日テレビに出ていた二十代前半の男性が「自分は頑張って働いて親を支えているのに誰も褒めてくれない、認めてくれない。褒めてほしいです」と話していました。それを聞いて他の出演者たちは「エライ」「すごい」「頑張っているよ」と褒めていました。自分の悩みを吐露した彼はそのとき、他者から認めてもらえたことに安心や喜びがあったかもしれません。しかし、もしかしたらそれは一時的な安心や喜びなのかもしれません。そのときは認められて喜んだとしても、また同じようなことで悩み苦しむことになるとも限りません。「いいね」をたくさんもらったら、それ以上の「いいね」が欲しくなるということがあります。一時的に誰かに認められたとしても、また新たに認めてくれる存在を求めてしまう。悲しみ、苦しみを抱える中で多くの人がこれを繰り返すのではないでしょうか。

ここにいていい

 私は大谷専修学院というお坊さんになる学校で一年間、共同生活をしていました。そこでは一年間、「阿弥陀仏のはたらきを摂取不捨と言います」「摂取不捨とはえらばず・きらわず・見すてずということです」と聞かされました。それはもう耳にタコができるくらいです。個人的には聞き飽きていました。そんな中、その学校の院長先生が「えらばず・きらわず・見すてずということは、私なりに言い換えますと“ここにいていい”ということです」と言われました。私は初めて聞くフレーズに興味を持ちましたが、同時にその程度のことなのかと思いました。その翌日、私は「感話」の当番が当たりました。共同生活をしているみんなの前で、日頃感じていることを三分間で話すのです。その時私は院長先生の話を思い出し、「自分も早く“ここにいていい”というような場所を見つけたいです」というような話をしました。
その日の昼、私が一人でいると、普段私とあまり話すことのない先生が私のところにスタスタと歩いてきて「ここにいていいというのは、あなたが今いる“ここ”が、ここにいていいということですよ」と言われました。私は顔が赤くなり、すごく恥ずかしい気持ちになりました。私はそれまで、どこかに私を満足させ、安心させてくれ、私自身を認めてくれるものがあるとばかり考えていました。しかし、その先生が言ってくれたことは違ったのです。

私の思いを超えた願い

 私は今、このように教わったと感じています。私が私一人の力でどこかに安心や私の存在を認めてくれるものを欲して、求めるのではない。私のこれまでを支え、認めてくれて、そうして私が生きることの出来た背景や大地のような存在を尋ねていくことだ。私は、私の知っている背景だけでなく、それ以上の計り知れない背景から支えられている。そしてそのような背景から響いてくる“ここにいていい”という呼びかけは、私が生きている今、そして未来にもずっと「ここでしっかりと生きなさい」と呼びかけ続けているのだ、と。認められるということは、自分の都合が満たされることではなく、私が生まれるずっと前から私の思いを超えて「ここにいていい、生きなさい」と願い続けられていることに気づくこと。その願いを阿弥陀仏のはたらきと言うのではないでしょうか。

十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし
摂取してすてざれば 阿弥陀となずけたてまつる 親鸞聖人

【現代語訳】あらゆる世界に生きる念仏する人びとを阿弥陀仏はご覧になり、おさめとってすてないので、阿弥陀と名付けお呼びするのです。(『書いて学ぶ 親鸞のことば―和讃』(東本願寺出版)より)

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