7.そくばくの業をもちける身
近藤 良祐(富山教区)
■死んだ方が楽なんじゃないか
十日ほど前、アルバイトを辞めた。
時給の良さから飛びついたものの、慣れない夜勤で身も心も疲れ果て、一週間しか持たなかった。
職場に辞めることを伝えた直後は肩の荷が降りた心地だったが、それが重苦しい鬱に変わるのにそう時間は掛からなかった。
「もう少し頑張れば良かったじゃないか。貯金もなくなりそうなのにどうするんだよ」
後悔で頭が一杯になる。
次の仕事を探さないといけないのに動く気力がない。
友人から法話を書く様に依頼されていたのを思い出すが、仏教のことも考えたくない。
「飢え死にするのが怖い」「死んだ方が楽なんじゃないか」
そんな正反対の考えが頭の中でグルグルする。
勉強も部活も嫌になって全部投げ出した大学三回生の夏を思い出し、「あの頃からまるで進歩してない。なんで世間の人と同じことが出来ないんだ」と自己嫌悪に陥る。
そんな状態が二、三日続いた。
■どうしようもない自分
そんな中でふと気付いたことがある。自分の中に「二人の自分」がいる。
一人は「将来のためにも沢山仕事をしてお金を貯めよう」「仏教を一生懸命勉強して、ご門徒さんの期待に応える立派な僧侶になろう」と理想を思い描く自分。
もう一人は仕事をこなせるだけの知恵も体力もなく、何のやる気も起きない自分。
前者が後者を「情けない、こんな姿を人に見せられない、消えてしまった方がマシだ」と責めていたのだ。
その事に気付いた後、『歎異抄』の一節を思い出した。
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」
【『真宗聖典』(東本願寺出版)640頁】
浄土真宗を学び始めてから耳にタコが出来るほど聞いた言葉だが、心に響いたことはなかった。「“親鸞”の所を自分の名前に置き換えて読んでみたらどうでしょう」と教えられたこともあったが、変わらなかった。しかし今になって、その言葉が強いリアリティを持った言葉として心に刺さった。
今この身を持ってここに生き、物事を考え、為すべきことを決断し実行している「私」というのは、生まれた時からの数えきれない経験によって成り立っている。その私の経験を成り立たせる世界は、私が生まれる遥か昔からの歴史によって成り立っている。そういう様々な経験・歴史が凝縮された身を、親鸞聖人は「そくばくの(数えきれない程の)業をもちける身」と表現した。それは「こう生きたい」「こうあらねばならない」という自分の願いや理想の通りには決して動いてくれない、「どうしようもない自分」である。
■あなたは存在して良いのだ
『無量寿経』という経典には、法蔵菩薩という修行者が「五劫」(果てしなく長い時間)を掛けて「一切衆生(全ての命あるもの)を救いたい。そのためにはどうしたら良いか」ということを考え、その願いを実現するためにさらに果てしない時間を掛けて修行を積んだ結果、阿弥陀如来になったと説かれている。
この「五劫」という数に対して、「一切衆生と言ったら、数兆や数京という数では収まらないだろう。それだけの人を救う方法を考えようとしたら、長い時間が掛かるのは当然だな」と考えるのが一般的な受け止めではないだろうか。しかし、親鸞聖人は「法蔵菩薩が五劫もの間悩んでくださったのは、このどうしようもない業を抱えた親鸞一人を救うためであった」と受け止めたのである。
そしてこの「そくばくの業をもちける身」を生きているのは私も全く同じであった。「そくばくの業をもちける良祐一人」、つまり「こんな自分は許せない、こんな自分は消してしまいたい」と、自分の理想通りにならないからと否定されていた自分を、阿弥陀如来は許し、見捨てることなく、「誰もが(自分自身も)あなたの存在を認めないとしても、あなたには居場所がある。あなたは存在して良いのだ」ということを伝えたいと願い、その願いが「どんな人であっても“なむあみだぶつ”と声に出せば、必ずお浄土に生まれる」という念仏の教えとして結実したのだった。
「こう在りたい、こう在らねば」という理想を叶えることではなく、その理想に反する自分、理想の通りに生きられない自分を無条件で受け止めることが本当の救いになるというのが、法蔵菩薩の五劫思惟の結論だったのだ。
そのことに思いを致した時に、胸の中の重りが取れた様に感じた。
もちろん自分を取り巻く現実が厳しいことに変わりはない。
将来への不安もある。
しかし、「何が何でも自分の理想を実現しないと」から「今自分が出来ることを少しづつやってみよう」という風に目標が変わり、そうすると「何も出来ない、やりたくない」と思っていた自分にも意外と出来ることがあることに気付いた。
目の前の現実が変わらなくても、その現実にネガティブだけでなくポジティブな意味を見出せたことが、有難いと思った。