10.禍中のじぶん探し

米澤 典之(三重教区)

はじめに

「感染防止か経済か」という、コロナ禍に突きつけられた選択は人々を困惑させ、分断をもたらしている。
「どうすればいいのか」、「ほかに道はないのか」、人々のそんな苦悩を反映してか、「お寺の掲示板」がメディアで注目を集めている。
ここでは、「ステイホーム」と「Go To」の狭間を彷徨う私が、折々にふれた法語を手がかりに禍中のじぶんを探ってみたい。

じぶんで茶碗を割ったときは「割れた」と言い
ひとが割ったときには「割った」と言う

他人の非を責めるが、じぶんの非は認めない。誰しも心当たりがあるのではないだろうか。
ひとがコロナに感染したのは自己責任、自己管理ができてない、と。
じぶんだったら「伝染された」と、不可抗力を主張するだろう。

悪いことをしたら謝りなさいというじぶんがいちばん謝らない

ひとには謝罪を求めるのに、じぶんは謝らない。
「故意ではない」などと、じぶんに「悪意」を見出す発想など、もともと持ち合わせてはいない。
なぜなら私は、間違いを犯すことも人様に迷惑をかけることもない「善人」のはずなのだ。
コロナ禍においては、感染者に謝罪を求めるということも取り沙汰された。

善人の家には争いは絶えず 悪人の家には争い事はない

「二軒屋の譬え」という話。
「私が正しい」、「私は間違っていない」という「善人」の家は、いつも「悪」のなすりつけあい。悪いのはいつもじぶん以外の誰か。「善人の町」「善人の国」でも同じ。
「悪人の家」は、犯罪者の巣窟ということではない。「私が悪かった」「私の方こそごめんなさい」と非を認め合う世界。ただ、それは良し悪しの問題でも、謝れば済むという話でもない。

人間の目は外を見る 仏さまの眼は内を観る

じぶんは間違っていないはずだという、そこそこの自負心。
自負心が善意に陥ると厄介だ。よかれと思い込み、ひとに押し付ける。
社会的な生活には「協調性」が求められる。けれども、秩序を守るという「義」を立てると、それを乱す人を許してはおけない。「みんな我慢している」という同調圧力の一員として、「自粛警察」を承認するものを私は持ち合わせている。
仏さまの眼は、善人の顔となって表面化した私の自負心を、智慧の鏡に映し出す。

じぶんのものさしで問うのでなく じぶんのものさしが問われる

「善人の面」を被った私にとって、いま何よりも重要なことはコロナに感染しないことだ。
「人様に迷惑がかかる」、「隔離される」、「排除されても仕方がない」。正義がねじれ、社会を分断し、差別を助長する。
「私は間違っていない」の根底にある、じぶんを正当化する思い込み。「正義」はこの思い込みに過ぎない。また他の誰かの「思い込み」に同調することで自らの承認欲求を満たし、感染者のみならず、医療従事者たちさえも遠ざけようとする。
じぶんの握りしめた「ものさし」でひとを裁く私。仏さまはその「ものさし」を問う。
真の善は仏さまにしかない。
じぶんの「ものさし」で立てた「善」は偽善に過ぎず、ひとを排除する「歪んだ正義」にしかならない。「ものさし」が問われ、ようやく無自覚な悪意を知ることになる。

隣のレジは早い

じぶんのうしろに並ぶ人のことなど気にも止めない。
いつも私は損をしているという被害妄想と不平等感。損をしてはいけないという強迫観念に縛られる私。

そんかとくか人間のものさし
うそかまことか佛さまのものさし

相田みつを

感染防止と経済。損得勘定に支配されている私にとって、給付金は貰わないと「もったいない」。
仏さまの「ものさし」は、「真か偽か」。
じぶんの「ものさし」で生きるのか、仏さまの「ものさし」を生きるのか。
偽りを生きるか、偽りを慚じて生きるか。

念仏には無義をもって義とす
『歎異抄』『真宗聖典』630頁

「義ということは、はからうことばなり」(『真宗聖典』594頁)。
「義」は、自我の「はからい」、じぶんの「ものさし」。それを交えないのがお念仏であると。
お念仏を利用して、じぶんの正当性を主張し、実はひとを排除し、差別する道具にさえしてしまっている私がそこに見透かされている。そんなじぶんの正体が明らかになってきた。
法語は、だれも教えてくれない都合の悪いじぶんを知らしめてくる。
問題は、それが他でもない私のことだと受け入れられないところにある。どこか他人事なのだ。
仏さまの救いの対象はこの私以外にない。
「じぶん探し」は、救いようのない私を発見する過程を辿る。それがしんどいのだが、救いようのない自己の発見は同時に、かならず救うという仏の誓いに遇うということでもある。
コロナ禍の「じぶん探し」は、分断という対立構造をどちらに転ぶとも、轟々と流されるとも定まらぬじぶんしか見あたらない。だが、逆にそのじぶんがはっきりしたともいえる。
轟々と流され続けるのだ。彼の岸まで。その岸さえはっきりすれば安心して流れていける。

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