11.仏教に知らされて〜三毒の煩悩〜

阿部 信人(北海道教区)

【知ることの難しさ】

 「自分のことは自分が一番知っている」と思い込んでいると、自分の生き方や心の在りようを改めて問うということはなかなかありません。でも、そこに気づいていないこと、見過ごしているものはないでしょうか。私たちには「自分の見たいように見る」ということがありますから、ありのままの自分を知るのは容易なことではありません。私たちは教えという鏡を通すことで、はじめて自らの姿を知らされるのです。親鸞聖人は、教えによって明らかにされた姿を「罪悪深重煩悩熾盛の衆生」と仰せになられます。自益のために他を傷つけ、いのちを奪い、果てることのない煩悩に苦悩している。それが私たちの事実なのではないでしょうか。「誰も傷つけてはいない」ましてや「いのちを奪うなどとんでもない」と思われるかもしれませんが、例えば、私たちが生きるために毎日とり続けている食事は、いつも何かのいのちを奪っているのです。「生きるためには仕方がない」という開き直りは人間のエゴでしょう。どこまでも他を傷つけ、いのちを奪って生きている。それが事実です。私たちは様々な煩悩に身と心を縛られています。なかでも「貪欲」「瞋恚」「愚痴」の「三毒の煩悩」と呼ばれるものがあります。

【私の在りよう】

 「これで十分」ということがない。これが「貪欲」です。ウルグアイの元大統領で「世界一貧しい大統領」と呼ばれたホセ・ムヒカさんという方がおられます。財産と呼べるものは小さな家と古い車のみ。大統領の給料として支給された月115万円の9割を社会福祉のために寄付されていた方です。彼は「貧乏な人とは少ししか物を持っていない人ではない。無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」と言われました。先日16年使用した我が家のテレビが壊れました。思いきって今までより画質も綺麗で大きなテレビを購入しました。欲しいものが手に入り満足のはずが、「別売りのスピーカーをつけるとよりいいですよ」と勧められた途端にスピーカーが欲しくなりました。まさに「満足しない人」です。どこまでも満足しない、まだ欲しい、もっと欲しい、そういう限りない欲のことを「貪欲」というのです。
 また、私たちは自分の価値観や思いを握りしめて、自分は正しいと思えば一歩も譲りません。お互い自分の主張を通そうと言い争い、それが通じなければ相手に対して腹を立てます。また、自分は正しいと思い込んでいると、不都合なことが起こったとき、失敗したとき、その原因を他のせいにしていきます。そして、そこでもやはり腹を立て、怒り、ときには憎むことさえあるのです。そのような「怒り」「憎しみ」を「瞋恚」といいます。一度でも夫婦喧嘩をされたことがある方は、思い当たることがないでしょうか。
  三つ目の「愚痴」とは「本当のことが分かっていない」ということです。一般的には「愚痴をこぼす」というように、不平不満が口からこぼれることを言います。そして、その原因はたいてい人間関係から起こります。お釈迦様はすべてのものは縁によって起こり、縁によって滅していくという「縁起の法」を説かれました。それは、あらゆるものが関わり合っているということです。自分も他の人も互いの存在に意味があり、関わりながら支え合って生きているということです。しかし、そのことが分からず、自分の基準やものさしでしか物事を見ることが出来ない、愚かな知り方なので「愚痴」というのです。本当のことが分かっていないからこそ、自分の思いだけで他に対して不平不満をこぼしていくのです。

【知らされて知る】

 教えの鏡によって明らかにされる私たちの姿は、決して居心地の良いものではないかもしれません。自己中心的な生き方であったり、欲にまみれ、自分の思いを握りしめ、腹を立てたり憎んだり。つながりや関係の中で、互いに支え合いながら生きているにもかかわらず、そのことが分からないまま迷い続ける私の姿が照らし出されるからです。ただそこに「罪悪深重煩悩熾盛の衆生」を「必ず救う」とお誓い下さった阿弥陀仏の本願のお目当ては当に私であった、救われなければ助からない私であったと気づかされるのです。そして同時に、そのような私が、このときこの瞬間、生かされていることがただ事ではないのだと知らされてくるのです。私たちは既にして自分の思慮分別を超え、無量なるいのちによって生かされているのです。それはお念仏となって私たち一人一人に届けられています。
  南無阿弥陀仏とお念仏申し、いま私を生かし続けて下さるつながりや関わり、無量なるいのちに思いをいたしながら「有り難う」と頂ける人生を有縁の方とともに歩みたいものです。

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