12.いま、苦しみの中にあるあなたへ

河野 大介(山陽教区)

〜 なぜ苦しみながら生きなければならないのか 〜

 私はもともとお寺の出身ではありません。仏教に限らず、宗教自体にあまり縁のない家庭に生まれ育ち、学生から社会人となり仕事をしながら生きてきました。
 私が僧侶として歩みを始めたのは40歳になる直前でした。46歳になったいま思えば、とても尊いご縁を頂いたのだと深く喜びを感じています。
 私はこれまで他者との関係や自らの身体のこと、あるいは仕事のことなど様々な悩み苦しみに会うたびに「何故こんな思いをして生きていかなければならないのか」という疑問に襲われてきました。そしてその思いが強い時には、もうおしまいにしたい、体も心も捨ててしまいたいと思うことさえもありました。

〜 社会で生きるということ 〜

 例えば、学生から社会人となったときに身に起った具体的な苦しみは、私をはかる「ものさし」によるものでした。「人材」という言葉や「使える・使えない」という言葉で人を部品やもののように表すことがあります。私はその会社や組織の「ものさし」ではかられて価値を決められ、部品のように見られ、そこで「役に立つ」者かどうかを評価されました。
 本当の私の姿を見てもらえないこと、常に「ものさし」ではかられ評価や比較をされ価値を決められるということは私にとってはとても苦しいものでした。しかし、組織の中ではそうあることが大人であり、社会人であると教え込まれていた私は、ほかの仲間もそうしていたように、それを当たり前のことだと信じ、立派な社会人になるべく努力しました。その場所その時に合った「役立つ」人間になるために一所懸命働きました。
 けれども虚しさは日々つのっていきました。本当の自分を偽って振るまい、本心でない答えを置き去りにしていく日々に、どんどんと本当の自分が失われていくような虚しさ悲しさを覚えていました。そしてこのように感じながら仕事をして過ごす時間が多くの部分を占めるようになっていきました。本来の私とはなんなのでしょう。私の価値とはなんでしょう。

〜 偏見に満ちた私 〜

 親鸞聖人のお書きになられた『正信偈』という偈文の中にこういう一句があります。

 邪見憍慢悪衆生【『真宗聖典』(東本願寺出版)205頁)】

 私たちは正しく物事を見ることができない、憍りたかぶり、人を侮る存在であるということです。事実を偏見なしに見つめることができない存在であるということです。
 この言葉から私は苦しみを自分の外側のせいにばかりしていることに気付かされました。「ものさし」ではかられた、と嘆く私もまた他者や社会を私の「ものさし」ではかり、色眼鏡で覗いていたのです。そして、私が批判するその社会やその構造を作ったのは実は紛れもなく今を生きている私だと思うようになりました。差別や偏見のない社会を、公平で等しい関係を願うはずの私が作ったのが、他者を「ものさし」ではかり出し抜き侮る不公平な社会です。苦しみを生んでいたのは私自身のあり方や行いであったのです。切り離すことのできない「自分」と「自分の外側(他者・社会)」を私は切り離して考えていたのです。

〜 今、いのちがあなたを生きている 〜

 私は私のいのちを、自分自身の努力によって自分の力で生きている、その力が足りないから悩むのだ苦しいのだと考えていました。自分の力でこの身を生き、苦しみに耐えられなくなったら好きな時に死んでやる、とさえ思っていましたが、どうもそうはいかない。家族を始めとし、すでに私は多くのご縁の方々との関係の間に助けられ生かされています。そもそも私の身体は「よし、では今日を生きよう」と私の意識が決める前に朝には目が覚めてしまうし、「もう消えてしまいたい」と思い詰めても気持ちとは裏腹にお腹は空きます。
 生きているということはとても不思議です。その不思議ないのちや大きな自然、その大きな大きなはたらきの中にいのちはあり、その上に私は生かされてあるようです。そのことに気づいたとき、私の頭の中の「ものさし」で考えていた「私の価値」の意味がなくなり、苦しみや悲しみの受け止め方がガラリと変わったような気がします。

〜 共に生きる 〜

 教えに出遇ってからは、苦しみや悲しみは歩みを止める障害ではなく、私がこれから押し開けるべき門や向き合うべきものとなったように感じます。そして親鸞聖人の教えの中には、一人悩み苦しむ姿ではなく、今を生きる他者と共に苦しみ悲しみ共感し生きる姿がありました。
 私の出遇ったこのお念仏の教えは、計り知れないほどたくさんの苦しみ悲しみを通して、親鸞聖人の時代から800年余りの時を超え私に伝えられここに届いています。このことに気付かされたとき、私の抱えていた苦しみ悲しみは、辛さの中にも尊さをはらむ不思議な感覚を持つものとなりました。私は生きてここにいるのではなく、生かされて今ここにいられるのだと、胸にじんと思うのです。
 現代を悩み生きるみなさんに、そして特に私と同世代の人々や若いみなさんに、浄土真宗と親鸞聖人に出遇っていただきたいと思っています。
 生涯幾度もの震災や飢饉に遭われながら、身分や性別を超えて共に生きようと願われた方が親鸞聖人です。私には今その親鸞聖人の生きられた時代が現代と重なって見えます。
 我々を悩ませる社会のそのあり方、人間同士の関係の悩み苦しみ、そして我々ひとりひとりが持つ人間の存在の悲しみは、現代も親鸞聖人の時代もさほど変わらないと私は感じています。
 どうぞ浄土真宗のお寺を訪ねてください。そこにはあなたと共に苦しみ共に悩むものがいるはずです。共に生きる姿があるはずです。

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