13.立ち止る尊さ

髙田 直来(三条教区)

便利になるほど忙しい

 世の中がどんどん便利になっていますが、その分ゆっくりできるようになったかというと必ずしもそうではなく、むしろ忙しくなっているように感じます。
 たとえば無料通話アプリによって、スピーディーにメッセージのやり取りができるようになりました。確実に便利になったはずなのに、相手の返信が遅いと心配になったり、逆にこちらの返信が滞ると相手に申し訳ないような気がして、せわしなくなります。気がつけばメッセージが何十件にも達していて、読むのが億劫になることもあるでしょうし、家族や友達と過ごしていたいのに、どうしてもスマホが手放せないといったこともあるのではないでしょうか。
 某時計メーカーが実施した調査によると「時間に追われている」と感じている現代人は全体の約7割にも上るそうです。総じて、現代人は忙しく常に何かに追われている。これは多くの人が感じていることではないでしょうか。
 さて、忙しい時ほどしてしまうものといえば何でしょう?それは「忘れ物」です。

人生の忘れ物

 急いで身支度をしたらハンカチを忘れてしまった…というのは誰でも身に覚えがある話。忘れ物を防ぐには、忙しい時ほど立ち止まり、確認することが肝要です。
 これは私たちの人生においても同様です。「立ち止まることなく一生懸命走り続けたが、結局自分の人生空っぽだった」こう感じることほど辛く悲しいことはありません。忙しい現代に生きるからこそ、立ち止まり自分自身の在り方を確かめることが重要なのです。
 空っぽではなく充実した人生を送るべく、私たちは「生きがい」や「生きる意味」を求め、何かを成し遂げようとしたり、豊かさを追求したり、良好な人間関係を築こうとしたりします。程度の差は人それぞれでしょうが、共通して言えるのは〈「こうしたい」「こうありたい」という私の思い〉を積み重ねた先に「生きがい」や「生きる意味」を見出そうとしている点です。
 自分の理想を追求し、実現していくことは大切な事です。しかし、それが本当に満足のいく人生に直結するかというと、少し疑問です。なぜなら、何かを積み重ねた末に得られたということは、それが崩れることで失われていくことを意味しているからです。また、どこまでも満ち足りず積み重ね続けてしまうのが人間だからです。

「当に世において無上尊となるべし。」(『仏説無量寿経』/『真宗聖典』(東本願寺出版)2頁)

 仏教では、私たちのいのちの本当のすがたを「この上なく尊い」「無上尊」と表現しています。私たちは何かを得れば尊くなり、何かを失えば卑しくなっていくのではなく、存在していること自体に尊さがある、ということです。
 本当に満たされた人生とは、〈私の思い〉を根拠にする「生きがい」や「生きる意味」を求めた先にあるのではなく、無上尊たる自分自身に出遇うこと、つまり自分の存在そのものに満足することだと思います。
 人生における忘れ物とは、自分の思いを満たすことに励む一方で、自分の存在自体への満足を忘れてしまう事であり、仏教は常に「人生の忘れ物はありませんか?」と私たちに問いかけている、そのように感じています。

立ち止まることが難しい現代

 忘れ物をしないためには、立ち止まることが重要と述べましたが、忙しい現代においては立ち止まることがとても難しくなっているように思います。私はその難しさを一人の友人の死によって突き付けられました。
 一年ほど前、急性心不全で突然友人を亡くしました。過酷な労働状況から、過労死であることは間違いありませんでした。彼は亡くなる直前に

自分の仕事に加えて上司の指示で他の人がやるべき仕事もやらされている/理不尽で腹立たしいが自分がやらないと組織が回らないのでやるしかない/手伝う気がないどころか「無駄な残業するな」と指摘してくる人がいる/自分が軽んじられているようで辛い/一緒に過ごす時間がなく、家族に申し訳ない。その分、たまには妻と娘を連れて美味しいものでも食べに行きたい。

 そんなことを話していたと聞きます。理不尽に腹を立て、家族に会えない寂しさを噛みしめながら遅くまで仕事をしていた彼の姿を思うと、今でも辛いです。
 彼がいのちを削るように働き続けることができたのは、仕事にやりがいを感じていたからだと思います。しかし、やりがいがあったからこそ本当は心身に不調をきたすほど苦しかったにも関わらず、立ち止まることなく自発的に倒れるまで働き続けてしまったのだと思うのです。
 仕事や生活にやりがいを持ち、一生懸命に前へと進んでいくことが大事なのは言うまでもありません。より成長し、挑戦し、競争し続けることが大切、そう考えるのが現代の常識でないでしょうか。しかし見方を変えれば、前へ進むことを常に迫られている、とも言えるのです。現代は苦しいはずなのにそれを苦しいと思うことができない悲しさがあり、立ち止まることは難しい。突然の友人の死は、その厳しい現実を私に突き付けています。

安心して立ち止まれる場所

 前へ前へと進み続けることが求められる現代だからこそ、立ち止まり、ゆっくり悩むことを許してくれる場を実は多くの人が求めているのではないかと思うのです。そしてお寺とは、いつの時代も、どんな日であっても、その時を生きる人々が安心して立ち止まれる場所であり続けてきたのです。
 仏教では、人間が立ち止る契機を「老・病・死」に代表されるような苦悩ととらえてきました。歩みを止めねばならぬほどの如何ともしがたい苦悩の現実を機縁として、自分の思いを超えた自己の存在そのものと、その尊さを確かめてきました。その中心がお寺という場所なのです。
 繰り返しになりますが、自分の思いを根拠とした「生きがい」や「生きる意味」をどんなに集めても、本当に満足した人生を送ることになるとは限りません。どんな人生を送っていたとしても自分の存在そのものに満足することが、空しい人生を超えていく道なのです。
 安心して立ち止まり、自己の存在そのものの尊さを尋ねることができる場所であるお寺、そして仏教は、苦しみを苦しみとして受け止めることが難しい現代においてこそ、大切な役割を担っているのです。

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