17.ののさまと共にある生活

里雄 敬意(岐阜高山教区)

◆保育園時代の思い出

 私が勤めさせて頂いている保育園には広くて大きい駐車場があります。園児のみなさんは、その駐車場からアーケードを通り、本堂の正面で“ののさま”(仏さま)にご挨拶をして保育園に入っていきます。このように保育園では園児、保護者、職員、園長が、“ののさま”と共に在ることを日々感じながら生活しています。

 園児のみなさんの登降園の姿を拝見していると、朝の登園の際は、車からゆっくり降り、駐車場、アーケードをゆっくり歩き、本堂の正面でご挨拶をして、保護者の方と別れを惜しむようにして保育園の門を潜ります。反対に夕方の降園の際は、足取りが軽く、元気よく走って、ご挨拶を忘れて勢いよく駐車場に向かう姿を見かけます。「みんな家が大好きなんだ。お母さん、お父さん、おじいちゃん、おばあちゃん、家族のいるところに早く帰りたいんだ」と思わず微笑みながら、自分の保育園の頃を思い出します。

 私が保育園に通っていた時の記憶は、楽しかったことよりも苦手だったことや嫌だったことを覚えています。まず、お遊戯の発表会で仮装することや、人前でリズムに乗って体を揺らして大きな声で歌を歌うということが苦手でした。「恥ずかしいなぁ、何でこんなことしなければいけないのか」と思いながら嫌々やっていました。また当時、左利きであった私が「みんなに迷惑がかかるから右手で箸を持つように、絵を描くときも右手で持つように」と、右利きに矯正された記憶があります。現在の保育ではそのようなことは行いません。「時を戻そう!」という訳にはいかないし、そのことがあっての今の自分だと思うこともありますが、40年以上経っても未だにその時のことを半分冗談、半分本気で恨むことがあります。

◆人が安心できる居場所

 保育園が苦手な私でしたが、家では楽しく気ままに過ごしておりました。私が高校生の頃、今は亡き母から「あなたには手を焼いた。本当に大変だった」と、保育園時代のことを聞かされました。そんな手の焼ける私について、名古屋のおばさん(親戚の坊守)が「あの子は外で良い子にしているのよ。家で王様になりたいの。大変だろうけど家では見守ってあげたら」と、言われたのだそうです。その親戚のおばさんの言葉がとても印象的で今でも私の心に残っています。

 子どもたちも保育園という社会の中で色々な人と生活をするわけですから、約束事の中で生活をしなければなりません。社会性や協調性ということを身につける中で、否が応でも自分を抑えたり、辛抱しなければならないことが起こってきます。良い子にしなければならないときもあります。そのことをよく分かっている親戚のおばさんの言葉を聞いた母親が、家で気ままに過ごしている私を十分に受け止め、見守ってくれたのです。私が私として安心して過ごせる場所があったのです。幼い時の話に限らず、両親にはこれまで苦労をかけっ放しでした。自分のことが嫌になり、自分を裁き、行き場のなさを抱えていた私に、両親は「お前は駄目な奴だ」と裁くことなく「あなたの家はここだ」「あなたはここに居れば良い」と居場所を与えてくれていました。

 親鸞聖人の教えを大切にされた有縁の方々に見守られ、受け止められ、お育ていただいたことによって、何とか人生を歩み続けることができ、今ここに私が在るのです。このことを本当に有り難いことであると感じるとともに頭が下がります。

◆居場所をたまわる

 現代の社会では人間も資質、能力で幼いころから厳しく選別されます。健康で役に立つ時は世間で受け入れられ、居場所がありますが、そうでなくなると排除されて居場所を失います。排除している側も、いつ何時自分自身が排除され、居場所を失う側になるかは分からないので、いつも不安に怯えています。

 排除するか排除されるかの中で他者を傷つけてしまい、最終的には自分自身をも見捨ててしまうような痛ましい在り方では、誰もが本当に安心できる居場所はありません。若い世代の中で、自己肯定感を持てずに苦悩される方が多いのは、このようなことが関係しているのではないかと思います。

 あるお寺の掲示板に「不退転とは、居場所をたまわること」と貼り出されていました。「不退転」とは私が私として、あなたがあなたとして共に生きることが出来る世界、誰もが自分自身を尽くしていける世界、本当に安心できる居場所をいただくということでしょう。

 親鸞聖人はご和讃に
不退のくらいすみやかに  えんとおもわんひとはみな
   恭敬の心に執持して  弥陀の名号称すべし
  【『真宗聖典』(東本願寺出版)490頁】
と教え示して下さっています。

 このご和讃をいただくとき、次のように思います。まずこの私自身が子どもたちのように、“ののさま”にご挨拶し念仏を申す。そして“ののさま”と共に在ることを感じながら生活を大切にする。誰もが摂取不捨の大悲心の中にある(どんな人間であろうと、今はおのれに願いがなくとも、如来に願われている存在である)ことを、如来、聖人に教えられながら、確かめながら日々の生活を送る。そのことによって、私たちも子どもたちも本当の居場所を賜ることができるのでないかと思います。

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