18.「みずから」のあゆみ

浜口 和也(四国教区)

■アスリートが政治や社会の問題を語るべきではない

 こんな言葉をネットニュースなどで目にしました。

 全米オープンテニスで二度目の優勝を果たした大坂なおみ選手。世界中の人々が見る試合に、彼女は白人警官等に殺害された7人の黒人被害者の名入りのマスクを着けて、人種差別撤廃の意思を示しました。ところが、彼女の行動に対して「アスリートが政治や社会の問題を語るべきではない」という声があったのです。

 実は、お寺でも同じ言葉を言われる事があります。「僧侶がお寺で政治や社会の問題を語るべきではない」、「私たちはそんな政治や社会の問題の話を聞きたくてお寺に来たのではない。仏教を語ってくれ」という声です。

 何故、このように「〇〇が、政治や社会の問題を語るべきではない」という言葉が出てくるのでしょうか。僧侶に対しては、「お寺で」政治や社会の問題の話をするなという声です。ですから、大坂選手に対する批判の声も「テニスの試合の中に、政治や社会の問題を持ち込むな」というニュアンスなのでしょう。実際に、「他の場で何を話してもそれは個人の自由だが、お寺で衣を着た時は仏教を語るべき」という言葉を聞きます。確かに、お寺に話を聞きに来た人や、テニスの試合を見に来た人にとっては、それ以外の話や表現になると、本来の目的とは違ったものとして捉えられるでしょう。自身の関心や信念と違う表現となれば、なおさら違和感や嫌悪感を覚えるのは理解出来ます。

 しかしそれは、言い換えると「〇〇なら〇〇らしく、こうあるべきだ」という、職業に対する偏見や束縛を生み出してしまうのではないでしょうか。大坂選手は、批判の声に対して「アスリートである前に、わたしは一人の黒人女性です」と、自らの主張を伝え続けました。自身の生きる場所で、当事者としての主張をする。私は、これがとても大切なメッセージだと思います。

■私の人生は、誰かに決められ、誰かに言われてあゆむ人生なのか?

 極端かもしれませんが、「〇〇が、政治や社会の問題を語るべきではない」という言葉によって、私の言動はおろか生き方そのものを決めつけられている様に感じます。私の身にある事実と、政治や社会の問題が重なっている事に対する自らの主張を、自身の生きる場所で語るべきではないと言われてしまうのです。

 大坂選手が主張する背景には、「残念ながら、人種差別を中心にあらゆる差別の問題がスポーツの世界にも持ち込まれている現実がある」ということも一つ背景にあると思います。ですから、せめて、「何故、僧侶であるあなたが政治や社会の問題を話すのか、それをお寺で話さずにはおれないあなたの背景を知りたい」という意見があっても良いのではないかと思いますが、残念ながらこのように尋ねられることはほとんどありません。

 お寺に住む僧侶も、一人の人間です。しかも、政治や社会の問題が仏教と切り離せないものであるならば、お寺にいるからこそ言わなければならない主張があっても何ら不思議ではありません。

 「〇〇なら〇〇らしく、こうあるべきだ」という決め付けによって悩み苦しんだ経験のある方もおられると思います。自身に経験がなくとも、性別で物事を決めつけられたり、役職で差別されたりという話は、誰もが一度は聞いたことがあるでしょう。この社会にはそういう悲しい現実があり、その現実を生み出す仕組みを政治が作ってしまうことがあります。そして、その仕組みによって対立・分断を生み出してしまいます。対立・分断から互いに正義を掲げ、排除し合い、その結果マイノリティに犠牲を強いる社会が出来上がってしまいます。私は、そのような社会を見て見ぬふりをし、「お寺は仏教の話を聞くところだ」といって決めつけるのではなく、「どうすれば一人一人が尊重され、差別や偏見によって苦しむことなく暮らせる社会に出来るのだろうか」という課題をお寺で考えたいのです。

■仏教は「人間は、必ず他者を差別する存在」であると自覚させる教え

 何故、僧侶がお寺で政治や社会の問題を話すのか。お寺で話さずにはおれない現実の問題が、政治や社会の問題と重なって目の前にあるからです。

 私は、かつてこの日本の社会で差別を受けてきた地区に生まれました。学校教育や地域学習の中で「差別を許さず、立ち向かえる人になって欲しい」と言われて育ちました。自分の祖父母や両親が、政治や社会に対して様々な運動をしてきたことで、劣悪だった生活環境が改善され、進学・就職・結婚の機会が阻害されないようになっていったことを習いました。ところが、大学で初めて仏教の歴史と差別の問題が複雑に絡み合っていることを知り、お寺の社会そのものにも様々な差別的構造や事象があることを知りました。私の地区では、生活環境や、社会的な不条理は運動によって改善されてきましたが、人々の意識には根強く差別が残っているし、様々な差別に苦しんでいる方がいる現状を考えた時、お寺でこそ語りあって考える場を作り、社会に対して発信し続け、あらゆる差別からの解放を目指すことが、私が仏教から与えられたあゆみであると思うのです。

 たとえ周りから「差別の話をするから、いつまで経っても差別が無くならないのだ」「お寺では仏教を語るべきだ」と言われても、私自身がせずにはおれないあゆみがあります。もちろん、強制されているものではありません。「みずからのあゆみ」です。そして、それは「いただいたあゆみ」として、先に同じ道を歩んでくださった先輩方がいて、私のあゆみを促すのだと受け止めています。
人間が存在する限り、差別の問題は決して無くならないでしょう。だから、「いつまで差別の問題を取り上げるのか」という意見に対しても、「人間が存在する限り、取り上げ続ける問題だ」と応えます。

 むしろ、仏教は「人間は、必ず他者を差別する存在」であると自覚させ、私たちがその悲しい現実に在りながら、差別からの解放を目指すとはどういうことなのかを考えるきっかけとなる教えであると理解しています。そして、自分が差別や偏見にぶつかった時の解決方法が具体的に説かれているのではなく、私自身の身の事実をはっきり見据える力を与えてくれる教えであり、その結果、自分が自分らしく生きていけるあゆみにつながっていくのであると思います。

法話ブックの一覧に戻る PDF 印刷用PDFはこちら