19.苦しさの中にある願い
篠 由希子(九州教区)
◆自分を責める
「こんな自分ではだめ。なんでこんな自分なのだろう」という言葉で自分を責め、苦しさを口にしていた女の子がいました。私は仏法に触れる以前にスクールカウンセラーとして働いていた学校で、その女の子と出会いました。彼女は学校の授業が終わると相談室に顔を出し、友人や家族との間で起こった出来事を話してくれます。ある時、学校の試験が終わり、返却された答案用紙を持ってきた彼女は90点以上の採点ばかりがされている用紙を持ちながら、「なんで私はちゃんとできないのだろう」と言うのです。私はそれらの答案用紙を見て驚きながら、「こんなに点数が取れて、頑張って勉強した結果だと思うけど、どうしたの?」と尋ねました。彼女は私の質問に対し、「10点分も間違っている。できている人もいるのに、私はできてない。なんで私はこんな自分なのだろう」という言葉から始まり、友人とうまくいかないことの悲しさや両親の期待に応えられない苦しさを吐き出し、今の自分が嫌だと自分自身を責めていました。当時の私は彼女に対して、頑張っていることやできていることを伝えてなぐさめることしかできませんでした。
◆苦しさの出所
それから少しして、私は生まれ育ったお寺を継ぐためにスクールカウンセラーを辞めて、仏教の学びのために京都の大谷専修学院という学校に通うことになります。その学院は共同生活をしながら仏法を学び、一年間をかけて自分自身における課題を親鸞聖人の教えに学んでいく場所でした。そこで問題になった自分自身とは、相手から好かれるような“良い人”で生きていこうとする姿でした。相手から嫌われないように、自分の不十分なところをできるだけなくして、接しやすい人になることが理想だったのだと思います。しかし、人と一緒にいると、相手にとって良い人ではいられない自分が見えてきます。些細なことでイライラしたり、相手の言動に腹が立ったり、相手と比べて自分の不十分さを感じて愚痴が出ます。そうすると、良い人でいたい私は相手に対してネガティブな感情を抱く自分を受け入れられず、苦しくなっていくのです。
当時の私は、自分の苦しさをなくすために“もっと良い人になるためにはどうすればいいのか”、“もっと相手から必要とされるためには何を頑張ればいいのか”と、自分を変える方法ばかりを考えていました。しかし、その私に対して学院では、「あなたの苦しさの出所を見つめなさい」と声をかけられていました。自分を変えて苦しさをなくそうとするのではなく、まずはあなたが本当は何に苦しんでいるのかにきちんと向き合いなさいと言われていたのです。私は何に苦しんでいたのか。私は「相手にとって良い人であらねばならない」という思いに適わない自分を“ダメな自分”であると裁き責め、そうすることで苦しさを感じていました。そのことに気づかされたのは、学院生活の中で人間が持つ裁き責める心のもと(因)を問題にされたからです。
◆自分を受けとめられない
仏教では自分自身や他者を裁き責める心のもと(因)に分別(ふんべつ)と我執があると教えます。分別とは自分にとって善いもの・悪いもの、好きなもの・嫌いなものというように二つに分けて物事を見ていくことで、我執とはそのような自分を中心とした物の見方に固執する在り方です。私たちはいつでも自分にとって善いものは受け入れてもよい、自分にとって悪いものはダメだと判断して捨ててしまおうとする心を持って生きており、その心は「こんな自分ではダメだ」という形で自分自身をも裁き責めていきます。そのことを宮城顗という一人の僧侶は次のような文章で押さえておられました。
人間には決して、清く美しく正しいそれだけの人間という者はいないわけでありまして、どんな人であろうと、そこにはやはり醜さもあり、弱さもあり、愚かさも抱えておる。そのすべてを受けとめるということが愛するということなのでしょう。だけど私たちはしばしば自分の醜い面とか弱い面から目をそらして、夢だけを追い求めるということがある。美しさと清らかさとか、そういう外にあこがれて、事実をそのままに受け入れるということがなかなかできない。人と比べて、優越感と劣等感、その間をいつもうろうろする。 【『自分を愛するということ』宮城顗・118頁】
この文章の中にある「事実をそのままに受け入れることがなかなかできない」という言葉は、私が出会った女の子や私自身の姿を知らせてくれる言葉だと感じるのです。自分を裁き責めるということは、自分をダメと決めつけて受けとめられないということです。そして、「どんな自分も私です」と受けとめられない苦しさを、私たちはみんな抱え続けているのでしょう。
◆自分のほんとうの願い
しかし、そこで感じていた苦しさが教えてくれることは、自分を裁き責めて切り捨ててしまいたくはないという願いが私たちの中にあるということではないでしょうか。親鸞聖人の御和讃に、「本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき」という言葉があります。これは、阿弥陀様の深い願いに触れていくことによって、私たちが「自分の人生を受け入れないまま、空っぽのように終わっていきたくない」と願っていることを教えてくださる言葉です。「自分を受け入れられるように頑張りなさい」ということではなく「自分の人生を切り捨てずに生きていきたいという願いに帰ってきてほしい」という呼びかけです。
私が出会った女の子も、また私自身も、人間の持つ分別と我執をなくすことはできず、その在り方ゆえに、これからも生じてくる苦しさがあるでしょう。しかし、その苦しさは私たちに、自分のほんとうの願いに触れるようにとの促しであると思うのです。