21.人間の故郷

藤井 眞翔(九州教区)

ふるさとの訛りなつかし

 同郷の友人との電話で、久しぶりにふるさとの訛りを耳にしました。何だか懐かしい気持ちになり、実家に帰って存分に方言で話したいという気持ちがわいてきました。地元の北海道で何気なく使っていた言葉も、通じる相手がいない長崎に住んでいる今、訛りの響きが心地よく、普段は忘れていたふるさとの風景や家族の顔がおもいおこされました。石川啄木が「ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」(『一握の砂』)と詠んだ気持ちが、以前にも増して沁みています。わざわざ駅の人ごみへお国のことばを聞きにいくほどに、故郷は忘れがたく、そして密かに自分自身の心の拠り所となっているものであると、あらためて気付かされたことでした。 人間には、さまざまなふるさとがあります。生まれ育ったところにとどまらず、思い入れがあり自分を成長させてくれた場所を「第二の故郷」とよんで大切にしています。私たちにとって故郷とは、自分自身を支えている場所であり、懐かしさを憶えるところです。そして、その懐かしさは、私を何か「帰りたい」という気持ちにさせてきます。行き詰まったときや寂しいとき、安堵と懐かしさを求めて心に去来するものは、いつも故郷やそこに住む馴染みの顔ぶれです。故郷とは、どんな自分であっても、そのすべてを受け入れて安らかな心を与えてくれるところです。

存在の故郷

 そもそも、人間には〈存在の故郷〉を憶うということが、もとからそなわっているようにおもえます。ある認知症の症状がある高齢者が、生まれ育った自宅に居ながらも「家に帰りたい、家に帰りたい」と切実に訴えてきたそうです。これは認知症で物事の判断がつかなくなっているということだけではないようです。このことについて理学療法士である三好春樹さんが、その症状の奥にあるものに目をむけて、次のように述べています。「彼らの、いま、ここが不確実なものだと彼らには感じられており、より確実な自分が、「家」に帰ればあるはずだと思っているらしいことである」(『認知症論集――介護現場の深みから』雲母書房)。心の奥底に、自分自身が存在していてもいいといえるような確証が欲しい、そういう気持ちが「家に帰りたい」という言葉として表れているのであると――。本当に自分が自分として、良しも悪しも含めて、存在そのものに落ち着くことができる安息の地が、〈帰りたい家〉として求められているのです。理性や分別とは違う次元、人間の深部からの要求として、帰りたい家――存在の故郷が求められていると言えるのではないでしょうか。

 お経には、親鸞聖人がその生涯で大切にした〈浄土〉という阿弥陀仏の国が説かれています。親鸞聖人は浄土を仏の智慧の世界として明らかにする一方で、「家郷」や「本家」、「本国」という言葉をとおして、私たちが帰るべき郷里、すなわち「人間の故郷」であることをしめしています。それは私たちが自身の故郷に抱く感情のように、いのちの記憶で感じる懐かしさと本当の安心を与えるところとしてあります。それでは、仏の智慧の世界としてあらわされた人間の故郷とは、現代を生きる私たちにとってどのような意味をもっているのでしょうか。

本当の安心を求めて

 現代は「こうなってしまったら人生終わり」とか、「勝ち組/負け組」という意識が少し強い傾向にあるようです。そういう言葉がいつの間にか口に出てしまうほどに、私たちの社会は競争が熾烈であり、いつ出し抜かれるかわからないと懐疑的になりながら生活をしているのです。そのような中で、日々心身を削りながら不安な毎日を生きていかざるを得ない状況にいる。これが現代を生きる私たちの一つのあり方と言えます。

 この不安な日々は、理想的な自己を実現していかなければ、この社会で勝ち抜いて生きていくことができないという思いからくるものなのでしょう。それは無理もないことで、失敗や躓きが許されない緊迫した毎日を生き、知らず識らずのうちに勝ち負けや優劣を基準とした物事の考え方になってしまっているからです。

 しかし、私たちはたとえ理想の自分を実現しても、理想の自分であり続けなければすぐに脱落してしまうという不安が、常につきまとうという問題があります。もっと根本的なことを言えば、私たち人間は、生まれてきたがゆえに、必ず老い病気になり、その身を終えていかなければならないという道理の中を生きています。そうであれば、この身というものは、いつも理想の自分から破れていかなければならないものを内包していることになります。理想の自分を実現し続けても、やがては老病死の現実に理想は阻まれていく。老病死する身を持つ人間が、本当に安心できる世界とはどのような形で開かれるものでしょうか。

故郷からの呼びかけ

 仏の智慧の世界としてあらわされた人間の故郷は、こうじゃなきゃ生きていけないという私たちの思いを照らし出し、その思いから解き放つ智慧を与える大地です。それは、「こんな自分では生きていけない」というものから「どんな自分でも生きていける」というように人生観を大きく転換させるはたらきを持つものです。現代における本当の安心というのは、どんな自分でも生きていくことができるという智慧が与えられるところにあるのではないでしょうか。私たちが帰るべき人間の故郷としての浄土は、どんな自分でもいいという安らぎと、どんな人生でも歩んでいける智慧を与えるために、いつも「帰ってこい」と私という存在に「南無阿弥陀仏」の名号をもって呼びかけ続けているのです。

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