22.あなたがいるから私がいる

森 広樹(大阪教区)

異なる価値観のなかで

 「最近の若い人達は・・・」という言葉は無くならないのですね。昨今のコロナ禍で、緊急事態宣言中に若者が外でお酒を飲んで盛り上がっている様子がテレビで放送されると、年上の方から「若い人は我慢でけへんねんなぁ」という声がチラホラ聞こえました。近しい世代の私にとって、「若い人」をひとくくりにした苦言には「また耳の痛い話が始まるなぁ」と思うことです。生まれた世代や育った時代が違えば世間の状況が異なるので、価値観や考え方が違うことは仕方ないのかもしれません。では育った時代からくる価値観の違いがあれば、心の奥に抱える想いも別々なのでしょうか。

抱える孤独

 90代のある男性の話をします。

 長く一人暮らしをされていたその方は、ご家族が新築の家屋を建てられたことをきっかけに、息子さんご家族と同居されることになりました。

 ある時、私が男性をお参りで訪ねた際にこう話してくれました。「仲の良かった友人たちはもうこの歳になると、みんな死んでしまって誰もおらんのです。家族は、みんな忙しくてゆっくり話せる時間がない。私にとってはあなたと話す月に1回のこの時間しか楽しみがないんです」と。

 それを聞いた時に、自分の背筋が伸びる思いがしましたが、同時に家族と一緒にいても孤独であること。また世代や価値観が違う家庭関係のなかで、お互いの心を汲み取りながら生活していくことの難しさを考えさせられました。

 20代のある女性の話をします。

 とても明るい性格と鮮やかなファッション。ニコニコと笑顔で接してくださるその方は、ある時自分の心の内を話してくれました。「私は友達に話を振られたら全力で応えるようにしています。どんな時も、その場が盛り上がるように振る舞えるけれど、実はあれは本当の私じゃないんです。本当の私を出しても良い所ってどこにあるんですかね?」と。それを聞いた時に、友達と一緒にいても孤独であることを教えてもらいました。また友達関係の中で自分の居場所を探し、気を使い悩んでいる姿を感じました。

 今ご紹介した90代の方と20代の方では、生まれた時代や物の価値観が違うことでしょう。しかし今を生きる二人の心の奥には、孤独感という同じ課題を抱えているように思います。いくつになっても、世代と価値観の違いから起こる問題を、どのように考えていったらよいのでしょうか。

小さな人の眼に学ぶ

 私は大阪教区で、青少幼年の教化に関わっています。子ども会を設立したいお寺からの要望を受けて、ゆるキャラのブットンくん(南御堂・大阪教区公式キャラクター)と一緒に子ども達と本堂で遊び、学び、正信偈のお勤めをするのです。もう10年ほど続けているのですが、1年目の時に受けたスタッフ対象の研修会で聞いた言葉を今も大切にしています。それは講師からの「子ども達のことは、小さな人たちと呼んでください。“子供”は、大人の“供”をさせる対象でなく、いつの間にか私たちが忘れてきた純粋な眼を教えてくれる先生です」という言葉でした。「子ども会はスタッフが楽しませるもの」という、私が中心である意識と、全く逆の目線をいただいたように思ったのです。「あなたがいるから私がいる」という関係性の中で考えさせられることがたくさん生まれてきました。小さな人たちを楽しませていると思っているけれど、小さな人たちの純粋な眼に自分が見られて、その場にいる仲間として一緒に楽しむことの大切さと、その難しさを教えられました。また、自分の学びや経験を正しいと疑わないことが、自分の間違いに気づけない一因であることを学びました。

根っこのように絡まりあう関係性

 先に述べた「あなたがいるから私がいる」という関係性を言い換えれば、木の根っこが絡まりあっていることを語源とした「ねんごろ」という言葉があります。「丁寧に」という意味ですが、親鸞聖人はこのように使われています。

としごろ念仏して往生をねがうしるしには、もとあしかりしわがこころをもおもいかえして、ともの同朋にもねんごろのこころのおわしましあわばこそ、世をいとうしるしにてもそうらわめとこそ、おぼえそうらえ。【『真宗聖典』(東本願寺出版)563頁】

 意訳すると「長い間念仏の教えを聞いてきた人は、自分の学びや経験を正しいと疑わないことが、自分の間違いに気づけない一因であると教えられ、濁った自分の心を思い返して、一緒に仏法を聞く仲間とは丁寧に接することが大切ですよ」ということでしょうか。ただそれは、自分と気が合う人とだけ丁寧に付き合いましょうという意味ではありません。気が合わない人から、これまで気が付くことのできなかった自分の姿を教えられることもあるでしょう。「あなたがいるから私がいる」つまり他者と関係しあって在ることは、私の好き嫌いを超えて複雑に絡まりあう木の根っこのようです。ここに、私が目の前の人をどう思うかという視点に加え、目の前の人から何を教えてもらうのかという課題があるように思います。

 近い将来、私も「最近の若い人達は・・・」と言うことになるのでしょう。年齢や経験を重ねるにつれて、わかったことの他に、わかったつもりにしてきたことが一体どれだけあるのでしょうか。それは家族や、友人知人に対しての関係性にも言えることでしょう。「あなたのこと、私のこと。本当にわかっていたのかな」。どの時代に生きる人にも直面する問いではないでしょうか。人と一緒にいても拭えない孤独感や、世代と価値観の違いから起こる問題を、仲間(家族、ご門徒、知人、友人、小さな人たち)と仏さまの教えに訪ね、確かめあうことを大切にしたいと思っています。

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