23.子どもは命の先生 ~流産を経て教えられたこと~

白木澤 琴(仙台教区)

【授かった命を失うということ】

 穏やかな春彼岸の早朝、腹部の激痛と大量の出血が突然襲いました。お腹に赤ちゃんを授かった喜びから、約1ヶ月後のことでした。夫とともに産婦人科へ向かう時の記憶はほとんどありません。頭の中は混乱し、不安と恐怖で鼓動は早まるばかりでしたが、平静を装い、先生の話を伺いました。何度確かめても結果は自然流産。何事もなかったかのように診察室を出ましたが、車に乗った途端、これまでこらえていた涙が一気に溢れ、嗚咽が止まりませんでした。

 その後、二度、命を授かりましたが、いずれも流産。この二回は稽留流産といい、お腹の中で赤ちゃんが亡くなったままの状態で、手術が必要となりました。

 初めて手術を受けた時のことは今でも忘れられません。手術までの時間、右手には血圧計、左の指には脈を測るクリップのようなものが繋がれ、病室で横になりました。すぐ近くの分娩室からは、元気な赤ちゃんの声と喜びに満ちた助産師さんと母親の会話が聞こえます。産婦人科とは、新しい命と出会う喜びに満ちた場であるはずなのに、なんで私は…。ぶつけようもない虚しさに自然と涙がこぼれました。

 その後、点滴から麻酔が入り、目を閉じました。何時間も経ったような感覚の中、自然に目が覚めると手術は終わっていました。起きるにも起きられず、茫然と横になっていたことを覚えています。実際はわずか数分の手術だったようですが、長い長い時間に感じられました。

【釈尊と一人の女性の苦悩】

 お腹に宿った命の死を知らされた時に、頭の中に浮かんできたのは、お経に説かれる一人の女性の物語でした。

 今から2500年ほど前のこと。インドにキサーゴ―タミーという一人の女性がいました。彼女には小さな子どもがいましたが、ある日、可愛い我が子は眠ったまま、目を覚ましてくれません。周りの人は「死んでいるのだよ」と伝えても、我が子を抱きかかえ死に物狂いで薬を求めます。そして行き着いた先が釈尊のもとでした。子どもを助けるための薬はないかと尋ねると、釈尊はケシの実をもらってくるよう伝えます。しかし、それには条件がありました。いまだかつて死んだもののいない家から、もらってくるように、とのことだったのです。キサーゴ―タミーは村中の家々を回ります。どの家にもケシの実はありましたが、亡くなられた方がいない家というのは、一軒もありませんでした。夕刻になるまで必死に訪ね歩きましたがついに一粒も見つけることはできず、釈尊の元へ戻りました。

 これまで死というものに触れたことがなかったキサーゴ―タミーは、釈尊の導きによって、愛する子どもの死というものに向き合い、また自分だけではなく多くの人々が愛する者と別れる悲しみ、苦しみを経験しているのだと身をもって知ったのでした。彼女は、のちに出家されたと言われています。遙か昔のインドに生きた女性の苦悩は、今を生きる私自身にも、なにか大切なことを教えてくださっているように思いました。

【死から教えていただく】

 私自身もまた、お腹に宿った命の喪失感と、罪悪感に苛まれる日々が続き、周りに話すこともできずにいました。そんな中、夫と二人だけで、ささやかな葬儀の場をもつことに決めたのです。名前も姿もない命でしたが、夫婦で法名を考えました。そして、お供えと、花束を用意。たったそれだけの準備でしたが、お供えも、お花も、涙を我慢しながら、亡き命を思いながらやっとの思いで選ぶことができました。

 阿弥陀様の前に夫と二人で座ってのお勤め。幾分か気持ちも落ち着いている頃ではありましたが、いざお勤めを始めると、今までこらえていた涙が一気に湧き出て止まらず、私はただただ嗚咽の中で、夫の勤める正信偈に耳を傾けていました。

 ささやかなご葬儀の間、様々な思いがこみ上げてきました。これまで他人事と思っていた、我が子の死。こんなにも苦しく、つらく、悲しいものなのかと痛感しました。しかし同時に、たとえ会うことができなかった命であっても、私を親にしてくれ、また死という現実を、身をもって教えてくれたのだと、尊く、愛おしくも感じられたのでした。大切な大切な葬儀の時間でした。

 私たち夫婦はのちに、縁あって、二人の子どもを無事授かりました。ただただ、生まれてくれただけで、本当にありがたく感じています。

 私にとって、三度の流産の経験から約5年。今やっと記すことができています。とても悲しくつらい思い出でしたが、同時に、かけがえのない命の先生である亡き子との大切な出会いでもあったと、感じています。生まれるということ、今を生きているということは決して当たり前のことではないのだと、賜りたる命の尊さを今は亡き我が子から教えていただきました。

南無阿弥陀仏

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