26.悪人の自覚

藤浪 遊(京都教区)

現代の価値観に翻弄されて

「わがままは良くない」、「身勝手は慎みなさい」、「人に迷惑をかけないように」、「善い人でありなさい」という現代の常識、価値観を私は、それなりに守って生きてきました。守っていれば「必ず幸せになる」と教えられて生きてきました。役に立つ人間にならないと、けなされ落ちこぼれのレッテルを貼られるから、一生懸命自分を磨いてきました。しかしそれが幸せや、本当の満足につながるのか疑問もあります。そのような生き方の中で一時的に「生きててよかった」ということはあるのだけれど、それが続かないのです。現代を生きる多くの人たちは、このように幸せや満足を見つけにくいという「生き辛さ」を抱えながら生きているのではないでしょうか。

いきいきと生きたい

 今、私は二人の青年から目が離せなくなっています。メジャーリーガーの大谷翔平選手と棋士の藤井聡太五冠です。大谷選手は、二刀流に懐疑的な周囲の中にあって「先入観は可能を不可能にする」との言葉を大事にしながら、体作りや練習に励んできました。藤井五冠は、将棋の神様への願い事を尋ねられた際に「棋力の向上を」などではなく「(一局)お手合わせを」と応じました。この二人の言動からは、勝ち負けや金銭を超えて、どこまでも深く野球や将棋の本質(真理)に迫りたいという思いや意欲が強く伝わってきます。

 まぶしい二人とは対照的に、私は歳を重ね「当てが外れる」ことが増えてきました。四十肩と老眼に悩まされるとは思ってもいませんでした。老・病・死に押しつぶされ「あきらめ」と「愚痴」で人生が終わることに漠然とした不安と恐怖を覚えています。
そんな中、以前聞かせてもらった「『自分の生き方はこれでいいのか?』という問いが、一人ひとりのいのちの深いところで疼いているのではないでしょうか」という言葉が思い出されました。今「自分の生き方が気にかかる」からこそ、大谷選手や藤井五冠のひたむきさ、純粋さに触れ、普段は隠れて表には出てこない「いきいきと生きたい」との根源的な欲求が顔を出すのではないでしょうか(彼らが多くの人を引きつけて止まない理由の一端がここにあることを思います)。

 自分の生き方が気にかかり、自分の生き方を問わずにはいられないのが私たちです。「あきらめ」と「愚痴」が口をつく私を、「当てが外れる」と嘆く私を、教えは照らしてくれます。あきらめと愚痴がそのままで終わるのではなく、自分の生き方への問いになることの大切さを改めて思います。

自力をはげむひと

 しかし「いきいきと生きたい」と願う一方で、私という「いのち」は、他を踏み台にして生き残ってきたという側面を持っています。争いながら、生き残ってきたということがあるのです。もともと私たちは、わがままで、身勝手で、自分を優先してしまうものを持っています。でも、なかなかそのことにうなずけません。このような自らの物差しを握りしめ、自らの考えを依り処にして生きていく生き方を、親鸞聖人は「自力をはげむひと」と教えてくださっています。

 自力というは、わがみをたのみ、わがこころをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり(『真宗聖典』541頁)

そしてまた親鸞聖人は、自力をたのむ人を「善人」、他力(弥陀の本願)をたのむ人を「悪人」と、独特の言い回しで表現されています。(『歎異抄』第3条/『真宗聖典』627頁)

 「自らの物差しを握りしめ、自らの考えを依り処にして生きている私」や、「わがままで、身勝手で、自分を優先してしまう私」、そういう私の姿を自身の生活の中で「思い当たる」という形で自覚していく。それが教えに聞いていくという歩み(聴聞)なのだと思います。

愚かさを通して

 「上から目線」で、自分の物差しをもって他者を下に見れば、その人と本当の意味では出会うということはないでしょう。他を踏み台にし、争い、差別しながら生き残ってきた私を教えに照らしてもらう。「自分のためにしか生きられない」という我執が、生活の中に出ていることを言い当てられる。教えを通して、自分の愚かさ、浅ましさに気付かせてもらい「ごめんなさい」と頭が下がりうなずけたときに、はじめて、目の前の人と出会えるのではないでしょうか。

 私たちは共に生きているといいながら、わが身、わが心、わが力をたのむが故に、お互い出会えないままなのではないでしょうか。「いきいきと生きたい」という根源的な欲求とは、言い換えれば「生まれてきてよかった」とうなずきたいということなのではないかと思います。

 自分のためにしか生きられない罪業の身に目が覚めることが、同時に、目の前の人を見いだし「生まれてきてよかった」につながることを思います。

 念仏の教えは、私の深い罪業の身(自分のためにしか生きてこなかった)を照らし、教えてくれます。その教えに「そうでした」とうなずけたとき(頭が下がったとき)、私たちは親鸞聖人が仰るところの「悪人」となるのでしょう。悪人の自覚において、本当の意味で他者と共に生きる世界が開かれ「生まれてきてよかった」といただけるのではないでしょうか。

法話ブックの一覧に戻る PDF 印刷用PDFはこちら