29.ともに聞く、仏の御名

安城 覚正(大阪教区)

【お内仏(お仏壇)のある生活】

 『歎異抄』の第五条には、「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。」(『真宗聖典』628頁)という親鸞聖人の言葉があります。その真意は何なのか、私たちの念仏生活を通して考えてみましょう。

 念仏生活の営みは、時に様々な問題を提起してきます。その一つに「祖霊信仰」があります。祖霊信仰とは、先祖崇拝のことです。ご門徒さんの各ご家庭には、「南無阿弥陀仏」のご本尊(木仏や絵像)が安置された、お内仏(お仏壇)があると思います。そのご本尊を依り処として、私たち真宗門徒の念仏生活が営まれてきました。その中で、時々お内仏に遺影が飾られていることがあります。皆さんも、どこかで同じような光景を目にしたことがあるのではないでしょうか。お寺の本堂では遺影を飾りません。それと同じように、お内仏はご本尊を安置するところなので、遺影を飾ることは好ましくありません。けれども、大事な人を失った悲しみはとても深いものです。悲しみが深ければ深いほど、亡き人への追慕は強まるものです。だからこそ、在りし日の姿を湛えた遺影を、お内仏に飾らずにはおれなくなるのかもしれません。人間感情としては、よく分かります。しかし親鸞聖人は、「父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。」と断言されました。この言葉を、私たちはどのように受けとめればよいのでしょうか。

【とぶらうとは】

 ここで言われる「孝養父母」とは、生前中の孝行はもとより、親の亡き後、その安らかなることを願い、せめてもの祈りを捧げることを意味していると考えられます。一般的には、追善供養として広く認知されています。追善供養というと、何の疑いもなく善いこととして受け止められているのではないでしょうか。しかし、亡き人への思慕に満ちあふれた行為であっても、そのどこかには必ず残された者の自己満足の影が見え隠れしています。亡き人をいたみ、嘆き、悲しむという「弔い」の気持ちは、別離によって引き起こされてくる自然な反応のひとつです。けれども、その弔いの気持ちには常に私の思いが横たわっています。むしろ私たちの弔いは、こちらの思いが第一優先になっているのかもしれません。それでは、どのようにして私たちは弔えばよいのでしょうか。親鸞聖人に尋ねてみましょう。

 親鸞聖人は、浄土真宗という仏道を顕かにしました。そして、その道理を『顕浄土真実教行証文類(以下、『教行信証』)』として著しました。その『教行信証』を結ぶ直前に、親鸞聖人の「とぶらい」を窺える言葉が引かれています。

 『安楽集』に云わく、真言を採り集めて、往益を助修せしむ。何となれば、前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり(『真宗聖典』401頁)

 同じ響きの言葉でも、用いられる文字によって味わいが一層深まることがあります。ここで見られるように、「訪」の字で「とぶらい」が表現される場合には、案じて問い聞く、尋ね求めるという意味が強く現れるそうです。つまり親鸞聖人にとっての「訪い」とは、前立つ人に自身のあり方を問い、どこまでも尋ね続けていくことのようです。

【大きないのち】

 私たちの多くは、身近な人との別離をきっかけに仏縁をいただきます。その昔、インドのお釈迦さまが身をもって示されたように、人間は最期、灰にしかなりません。しかし、身は灰になっても、その人が生きた歴史は消え去りません。全身を焼き尽くした猛烈な炎ですら、いのちの営みを消し去ることはできないのです。いかなる炎をもっても消し去ることのできない、大きないのちを私たちは生きています。たとえ深い悲しみの中にあっても、いのちはあなたを決してあきらめずに生きているのです。そして、その生死を貫く大きないのちの名前こそが「南無阿弥陀仏」です。前立つ人は皆、いのちの本来性である「南無阿弥陀仏」に帰り、「南無阿弥陀仏」を教えてくれているのです。私たちが「南無阿弥陀仏」と手を合わせ念仏もうす時、その念仏する声に前立つ人の教えである「南無阿弥陀仏」を聞いているのです。念仏は先祖の冥福を願い、祈りを捧げるための呪文ではありません。念仏は唱えることではなく、その深いいわれを“聞く”ことに真意があるのです。だからこそ、親鸞聖人は「父母の孝養のために念仏もうしたことはない」とおっしゃられたのでしょう。

 私たちは皆、血のつながりよりも深い「南無阿弥陀仏」のいのちを生きる有縁の朋です。その有縁の朋の存在が、私たちに「南無阿弥陀仏」の深いいわれを聞かしめてくれるのです。血縁では狭くなりがちな人間関係が、仏縁ではどこまでも広くなるのです。親族知友はもとより、あらゆる存在とともに聞くことのできる教え、それが「南無阿弥陀仏」です。今回取り上げた親鸞聖人の言葉は、私たちの念仏生活のあり方とその中身を問いただしてくる事柄なのです。

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