31.亡き兄との言葉に思う

園村 義誠(奥羽教区)

身近な仏事を問い直す

 この原稿を書いているのは、ちょうど春のお彼岸を間近に控えた時期です。私達日本人にとって、お彼岸やお盆にお墓参りをしたり、自宅のお内仏(仏壇)に向かって手を合わせるということは、ごく自然に行われている行為なのでしょう。仮にそうした行為を私達はなぜ行っているのかと尋ねられたら、どのようにお答えになりますか。私は寺の住職ですが、ご法事の際お勤めが終わった後の法話に先だって、お参りなさっておられる方々にこんな問いかけをさせていただいています。

 「みなさんは、なぜこうしてお参りなさっておられるのでしょう」と。大概の方々は何を今さらという怪訝な顔をされて「亡くなった人のため」「亡き人の供養をするため」というようなニュアンスのことをおっしゃいます。その一方で「亡き人のご法事を通して、アミダさまの教えをいただき直すため」と言われる方もおられます。いずれの思いや行為も大切なことであり、ここで何が正しいというような事を言うつもりはありませんが、日常生活の様々な場面で、立ち止まり「問う」「問い直す」ということは、とても大切な事だと感じています。

兄の死という事実から浮き彫りになった自分の姿

 私は今から18年前に当時住職を勤めていた兄が進行性の癌で42歳の若さで亡くなったことを受けて、それまで勤務していた長野県にある私立高校の教員を退職し、実家であるお寺に帰り住職となりました。自分は教員として、それこそ長野に骨を埋めるつもりでしたからマイホームも購入し、妻と2人の息子たちとの生活を送っていました。そんな矢先に三歳違いの健康そのものであった兄が亡くなるという衝撃的な出来事。兄に代わり自分がお寺の住職になるということは、想像もしていなかったことでした。家を建てた際の多額の借入金の返済、慣れ親しんだ職場を辞めて帰らなければいけないという悔しさや寂しさに、当時の私は何で自分だけがこんな目に遭わねばならないのかと、心の中で愚痴ばかりこぼしていたように思います。

 一昨年兄の17回忌の法事を勤めたのですが、その際に親戚の叔父が「耕ちゃん(亡き兄)まだまだ若い盛りに亡くなってしまったけど、コロナの中、こうして親類が集まってお参りさせてもらえるのも耕ちゃんのおかげだな。有難いなぁ」と話してくれました。思えば兄が亡くなった当初、自分の置かれた立場に愚痴ばかりをこぼしていた私でしたが、今の自分はどうかと問うてみれば、そこには相も変わらない自分の姿があります。

兄と交わした最後の言葉と向き合いながら

 亡くなる1週間前に長野から入院中の兄を見舞いに帰省し、「兄の前では泣かずにいよう」と覚悟を決め病室に入りました。3週間前に見舞った際とは明らかに様子が違っていた兄の姿にかける言葉も見つかりません。全身がむくれ苦しそうな兄が最後に「まこと(義誠)、お寺のこと頼む」と言われた時には、こみ上げてくるものをこらえ、「大丈夫。それよりも早く病気治してよ」と言葉にするのがやっとでした。

 兄が亡くなって以来、この「お寺のこと頼む」という兄の最後の言葉、それに対して「大丈夫」と応えたことは、今でも私にとって忘れることのできない大切な言葉となっています。お寺の住職として中には思うようにいかないことや、ついつい本堂の掃除や仏花の立て替えも手抜きをして「まあ、いいか」と妥協してしまう自分がいます。そんな時「お寺のこと頼む」という兄の言葉、それに対し「大丈夫」と応えた自分の言葉は何だったのかと。折に触れ「お寺のこと頼む」と言った兄の言葉の裏にある様々な思いや願いについて思いを巡らせ、「大丈夫」と応えた自分の姿というものが兄から問われているように思えてなりません。

亡き人と向き合うことは自分の心に問い続けていくということ

 みなさんは日頃「亡き人」とどのように向き合っておられるでしょうか。そして、亡き人はどこにいかれたのでしょう。世間では、天国とかあの世という言葉で表現されることが多いように感じますが、みなさんはどう思われますか。本来天国とは、キリスト教の神の世界を意味します。あの世という表現もいたって曖昧な表現と言わねばなりません。私にとって大切な亡き家族・縁者が、実はどこにいっているのかも知らず、知ろうともせずに、無頓着にあの世という言葉で表現しているように思えてなりません。よくテレビなどで亡き人とお別れをしている場面で「迷わず成仏してください」と手を合わせるシーンを見かけることがあります。この「迷わず成仏」という言葉は、ある意味決まり文句として世間一般に広まってはいますが、供養という言葉同様に、その意味するところを尋ねていく、すなわち「問う」ということがとても大切な事なのではないでしょうか。

 ご本山である京都の真宗本廟の施設、参拝接待所の仏間に次のような言葉が掲げられています。

  “亡き人を案ずる私が
     亡き人から案ぜられている”

 先ほどの言葉で言い換えれば、「亡き人に迷わないであの世に往ってくださいと案じていた私が、亡き人からそう言うあなた自身が迷っているのではないですか」と案じられ、その願いは止むことがないと気づかされるということなのではないでしょうか。

 コロナ下の中、自分にではなくますますあれこれと周囲の人達に対して自らの都合で問い、時としてその「問い」が「責める」という行為に転嫁されるということはないでしょうか。そんな私の姿に気づかされる機縁が、お彼岸やお盆、ご法事といった仏事なのでしょう。

 私にとって亡き兄と交わした18年前の言葉は、自分のあり方を問い直すかけがえのない大切な言葉として、これからも活き続けると思っています。

最後に真宗教団連合の2012年の法語カレンダーにある高光大船先生の言葉を紹介させていただきます。

  “仏法とは鉄砲の反対
    鉄ぽうは外を撃つ
    仏ぽうは己の内を撃つものである”

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