33.アミタ―(限りのない)願い

馬川 透(高岡教区)

■能登の頓成さんの教え

 昔、石川県の能登に生まれた方で頓成(とんじょ)というお坊さんがおられました。1795(寛政7)年に生まれ1887(明治20)年に亡くなっていますので、江戸時代の後期から、明治の中期まで、93年間の生涯を生きた方です。

 幼子が手を合わし「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えると、「坊、お前そっで間違いなく極楽参りができるぞ」と言ったそうです。頓成は北陸各方面で法話をし、大勢の人が聴き、家路につきながら、「こっで間違いなく、わしは極楽参りができるぞ」と、民衆に安心を与えたと言われています。

 私のお寺はその頓成さんの法話に育てられた方々によって護持されてきました。私の家の近くに山田川という川があり、堤防に「頓成橋」という看板が立っています。昔は橋が無かったので、大きな杉の木を切って、向こう岸に渡して、大勢の方が渡って頓成さんの法話を聴きにこられたのだそうです。今の時代は、そんな念仏なんて「古臭いや」と思う方も多いと思いますし、極楽参りなんて、死んだ後の話だから、非科学的な話じゃないかと思われるかもしれません。でも、お念仏と極楽参りが私たちにとって大変大事なことだと教えてくれたのが、今から十数年前に亡くなった私の妻でした。

■見限られていないという安心

 妻は、幼い時からお父さんやお母さんからお念仏って大事なことなんだぞと教えられながら育ってきました。だから妻は自分の娘たちをあやしながら「みほとけは」という歌や「弥陀の名号となえつつ」という歌を聞かせて育ててきました。そして、亡くなる直前に私たちのために書いてくれた手紙の最後に「南無阿弥陀仏」と書いていたのです。本人は、病気で苦しんでいたのだと思いますが、仏さまの大きな手の中でもがいていたように思います。お念仏を称えても病気が治るわけではありません。安心して悩み苦しんでゆくことができるのがお念仏ですよと教えてくれたのが、妻だったように思います。

 「南無阿弥陀仏」の「南無」はインドの言葉の「ナマス」の音訳で、「わかりました」とか、「ありがとう」という意味で、「阿弥陀」は、インドの言葉の「アミタ―」の音訳で、「はかることができない」とか「限りがない」という意味があるのだそうです。

 私たちは日常生活ではいつも自分の都合で伸び縮みする物差しを持ってはかって生きています。その物差しを通して他者と関わっていますので、ひとの言うことを素直に受け取れなくなったり、又ひとの物差しに自分が合わなくなった時に、こんな自分はおかしいのでないかと自己嫌悪に陥ったり心を閉ざしたりすることがあります。そんな私への、「あなたのその物差しは、本当に正しいの?そうでないかもしれませんよ」という呼びかけが教えの言葉だと思います。その阿弥陀さまの教えが、私にも届いていました、という「わかりました」「気づかせていただきありがとう」という返事が「南無阿弥陀仏」なのでしょう。

 ところが「私は自分の都合で伸び縮みする物差しを手放すことができません」と言われた方が、親鸞聖人です。ある若いお坊さんから、こんな法話を聞かせていただきました。「皆さん、人差し指と、中指と、薬指を曲げてください。親指と小指が残りましたね。親指は、じっと小指を見ているけど、小指は親指の方を向かずにそっぽ向いているでしょう。実は、この小指が私です。親指が阿弥陀さまなんですよ」と。阿弥陀さまである親指は、私という小指をじっと見続けているのに、私という小指はそっぽを向いて、阿弥陀さまである親指をずっと無視しているということです。

 私たちは、他人に一生懸命話しかけても、相手が無視してそっぽを向いたら嫌な気持ちになります。しかも、振り向いてくれない人を「嫌な人だな」とか「この人は見込みがない人」だと思い、見限ってしまいます。親鸞聖人は、自分の都合で伸び縮みする物差しを手放さないで人を見限る存在が、私自身だと深く自覚されたのだと思います。しかし、同時に親鸞聖人は、自分の勝手な物差しで人を見限るような私が、見限ることのない願いの中に生かされていることに気づかれたのではないでしょうか。妻も、見限られていないという阿弥陀さまの安心の中で葛藤していたのかもしれません。それが手紙の最後に書いてくれた「南無阿弥陀仏」なのかなと思います。

■身体から教えられる

 それと、もう一つ妻が日頃言っていたことは、「この身体は仏さまから借りてきたものだ」ということです。身体は、お借りしたものだから自分の所有物ではないということです。自分の所有物なら、自分の思いのままになるはずです。しかし、思い通りにならないのが身体です。だから、自分の物差しの通りにならないことを一番身近にあって教えてくれるのが身体です。だから、この身体こそ、「南無阿弥陀仏」の教えにあわせる手だてなのです。だから、身体から教えられながら一生涯を尽くしてゆくことを「往生極楽の道」というのですよ、と、妻は身をもって教えてくれたのだと思います。

 皆さんの周囲にもひょっとして大切なことを教えてくださる方がいらっしゃるかもしれません。もう一度身のまわりの方々との関わりを見直してみませんか。

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