35.今を生きる

但馬末利花(大聖寺教区)

義理の父が命を終えました。62歳でした。

超高齢社会の現代において、62歳で命を終えたというと、多くの方は

「早すぎる」「まだまだ、これからなのに」と思われることが多いでしょう。

私たち家族にとっても、まだまだ義父には生きて欲しかった。家族の思い出をもっと沢山作りたかった。ご縁があれば、いつか孫を抱いて欲しかった。

そういう思いは溢れてやみません。

しかし、どれだけ願っても義父の肉体はここにありません。数十年の長さの違いはあれども、人は必ず命を終えてゆくのです。

肉体は在りませんが、亡くなった義父の姿を通して、私は「いのちの有り難さ」ということを考えさせられる毎日を過ごしています。義父は今もなお、私たちに様々なことを伝えてくれているのだなぁと、身をもって感じることがあります。

私たちは皆、「いのち」をいただいて生活をしています。そして平等に終わりがあります。しかし、その「いのち」をいつの間にか、あって当たり前のものとして受け取っていないでしょうか。

先日、あるお宅へご法事に参りました。お勤めが終わってお話をしていた時、そのお宅のお父さんが「いのちに終わりがあって良かった」と言われ、驚きました。いのちの終わりを喜ぶとはどういうことなのか、と尋ねました。

「人間に永遠の寿命があったとしたら、自分はその人生に何の意味を持つことができるだろうか。有り余る人生の中で、『また今度でいいや』『そのうちやるだろう』と全てを後回しにして、大切な人生の時間を大切とも思わずに過ごしていただろう。

自分のいのちがいつ終わるかは分からない。今日死ぬか、明日なのか。

そんな人生だからこそ、今、この一瞬一瞬がとても大切で、とても尊いことだなぁと思う。」

と、そのお父さんは話して下さりました。

時間に追われるこの社会、タスクをこなしていくことで精一杯かもしれません。

義父との別れから時間のたった今、私自身も日々の生活に追われ、「今」を生きることに鈍感になりました。「いのちをいただいて生きている」、「私は今生きているんだ」という感動もなく、ただ当たり前に一日を消化している毎日です。そのような中で「いま・わたし」と向き合うことが出来ているのか? そのことを何度も何度も気付かせて下さるのが、義父の月命日であり、「気付けよ」という義父の声なき声であります。

「義父からもっと話を聞きたかった」と思うことは沢山あります。しかし義父がまだ元気で生きていたとしたら、果たして私は同じことを思ったでしょうか。「義父が生きている」ことを当たり前と思って、なんとなくの向き合い方しかしなかったかもしれません。自分の都合を優先して、義父と向き合うことをなおざりにしていたかもしれません。私はどこまでも勝手な生き方をしているんだなぁと、お参りのお宅で出遇ったお父さんとの会話の中で気付かされました。

「そのうちやろう」「落ち着いたらあれこれしよう」と思うけれども、なんとなく日々の生活に流されて「そのうち」が訪れないで今に至る。みなさんもそんな経験が少なからずあるのではないでしょうか。

今となって、義父は62年の人生を、命終える直前まで精一杯に生きていたんだなぁと感じることが増えました。

本人の心の内には、もしかするとやり残したことがあったかもしれません。あとちょっと、もうちょっとという希望もあったでしょう。
それでも、賜ったいのちを精一杯に生きて生きて、生ききってゆかれたのだと思うのです。その姿を通して、今を生きる私たちはいのちの尊さ、大切さを教えてもらいました。

私たちは、代わりのきかない大切ないのちをいただいて、今を生かしていただいているのです。

命を終えるために生きているというと、なんだか暗いようにも聞こえますが、限りのあるいのちを、精一杯に、大切に生きようという願いがそこにはあるのです。

思いどおりのことも、うまくいかないことも、幸せも、悲しみも、まるごとあなたの大切な人生です。その経験に、無駄なものなどないのです。

皆さんもいま、この一瞬を大切にして、精一杯丁寧に、生きてみませんか?

法話ブックの一覧に戻る PDF 印刷用PDFはこちら