36.宗教について

佐々本 尚(福井教区)

■猫のお葬式

 小学校3年生のとき、学校の帰り道で猫が車に轢かれて死んでいるのを見つけました。私は穴を掘って猫を埋葬し、お経をあげてお葬式をしました。そのときは単純に猫がかわいそうで、いたたまれなくて行ったのですが、それだけでは終わりませんでした。後日、私がしたある悪戯が見つかりそうになったとき、とっさにそのときの猫にお願いをしていました。「どうか私だとばれないようにしてください!」と。幸いというべきか、いたずらは見つかりこっぴどく叱られたのですが、いまだにそのときのことを鮮明に覚えています。

 思い返してみると、そのとき私は、猫のお墓を作りお葬式をしてあげたことに対する見返りを求めていたのです。小学校3年生にしてすでに善いことをした見返りを求める心が染みついていたのです。いま思えば、ちゃんと叱られて本当によかったのです。もし願い通りにいたずらがばれなかったら、非常に身勝手な宗教観を持つようになっていたのではないかと思います。

■がむしゃらに走って

 その後は思春期に入り、生きづらさや不安・むなしさに襲われていたときには、がむしゃらに努力することで生きづらさを跳ね返し続ければ何とかなるのではないかと思い込み、自分なりに一生懸命もがいていました。私の場合、それは大人や世間の価値観に対する反抗という形で現れました。ですから大人たちからすれば、ただの不良品としか見られませんでした。

 思春期から二十代にかけては言いようのない生きづらさと焦燥感に駆られ、どうなりたいのかも分からないまま、がむしゃらに走っていたという感じがします。しかし結局のところ一体何がしたいのかが分からないまま、行き詰まったり、また走り出したりということを繰り返しただけでした。その都度、能力が足りないのだろうか、努力が足りないのだろうか、方法が間違っているのか、と自己嫌悪に陥り、深みにはまっていくばかりでした。

 仏教を学ぶようになってからも自分の努力を当てにする心は抜けませんでした。頑張って勉強していれば、教えを聞き続ければ、いつか揺るぎない信念を得られるのではないか、自己分析をもっともっと突き詰めていけば本当の自分に出会えるのではないか、など様々な努力や心の工夫に苦心しましたが、ついに決定的な境地に立つことは出来ませんでした。

■出発点と限界

 ここで本題に入りますが、多くの方は「宗教」といえば、私が自然と身につけていたようなイメージで捉えているのではないでしょうか。困ったときの神頼み的なものや、神仏を信じることによって悩みや問題を解決してもらおうとするもの、心の工夫や努力によって障害を乗り越え平穏を獲得しようとするものなど、世の中には様々な宗教の捉え方があり、それぞれに一定の効能があることでしょう。

 ですが、努力には限界がありますし、努力できる人は努力できない人を見下し、差別してしまいます。逆に努力できない人は無力感に苛まれ自己嫌悪に陥っていくことでしょう。

 心の工夫にも限界があり、人によって工夫の方法も違ってきますし、悩み方や感じている生きづらさも人それぞれですから、突き詰めれば誰とも分かち合えないという孤独感に苛まれてしまいます。

 人間が生きるうえで抱える悩み苦しみは多種多様ですが、それらを解決しようという時の出発点は殆どの場合、「〈私〉が抱えている問題を何とかしたい(してほしい)」ということになるでしょう。その出発点は大切なことですし、そこからしか始まらないと言えるでしょう。

 ですが〈私〉を出発点にする限り、常に能力や努力の差、置かれた境遇の違いなどから、差別や争いを生み出し、独りよがりな救いか、仲間内だけの救いに陥ってしまいます。自分一人だけでどれほど陶酔しようとも必ず醒めるときが来てしまいますし、仲間内だけでどれほど喜び合おうとも、異質な者を許さない暴力性と、常に仲間でいることを強いられ排除の恐怖から逃れることはできないでしょう。

■支えが崩れたとき

 これまで述べてきたことはすべて、人間の発想する「宗教(生きるということ)」に関することです。人間が発想する限りにおいて、人間そのものが根本的に問われるということはあり得ません。藁にもすがる切実な思いから求めた宗教によってかえって差別と排除が起きてしまうのです。

 どんな宗教を信じていようと、無宗教を自認していようと、何か支えになるものがなければ人は生きていけないでしょう。人によってそれが仕事であったり、地位や名声であったり、家族や恋人であったり、宗教であったりと何らかの支えを当てにして生きているのです。

 遠藤周作さんが『私にとって神とは』(光文社)の中で「神も仏もないものかというところから、人々は本当の宗教を考えるようになるのではないんですか。(P68)」と述べておられます。

 人が生きるうえで支えとしているものが崩れそうなとき、藁にもすがる思いで祈ることでしょう。ですがその祈りもむなしく支えが崩れてしまったとき、誰もが「神も仏もないものか」と嘆き悲しむのではないでしょうか。遠藤さんはそこから本当の宗教を考えるということが始まるのだとおっしゃいます。

 「宗教について」私が思うことは、「人間の発想する宗教」が崩れ落ちたところが、真実の教えに出遇う場所なのだということです。

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