37.どうしたら自分らしく生きられるようになりますか?

和田 英昭(岐阜高山)

Q◆質問(30代女性)

 ご住職さんにご相談したいことがあります。

 私は、社会人として「一人前の大人」になることが求められる年齢になって以降、「生きづらさ」を強く感じるようになりました。

 子ども時代は「いい大学に行けば将来の選択肢が広がる」という親の助言をひたすら信じて勉強に打ち込み、希望の大学にも合格できました。しかし、大学合格という目先の目標をクリアした後は、自分でやりたいことを見つけられずに抜け殻状態の大学生活を過ごしました。

 社会人になってからも「みんなこうしている」「前まではこうしていた」という言葉に乗っかってばかりで、現状に疑問も持たず、主体性もなく、漫然と仕事をこなしてきた自覚があります。

 私は基本的に「自分で決めて失敗して傷つきたくない」「自分が決めたことで誰かに迷惑をかけるのが怖い」という感情が行動に先立ってしまうのです。

 大人になればいろんな経験をして、いつか自分なりの揺るがない価値基準ができると思っていたのですが、大人の年齢になった今でも他人の基準を自分の基準として生きている自分が不甲斐ないのです。こんな私がこれから「自分らしく生きる」にはどうすれば良いのでしょうか?

A■回 答

 私たちが普段生きている娑婆世界は、立派な賢者・聖者を目指す向上の道です。「いい子ども」、「いい大人」、「いいお年寄り」と、生まれてから必死になってその時々の理想像を追い求めてきました。「もっと早く、頑張れ」の言葉にあおられながら、ひたすら走り続けることに疲れ果てて、理想像と現実の自分とのギャップでもがき苦しんでいる在り方を私たちは本当に求めているのでしょうか。

 そもそも「いい子ども」って何でしょうか。親や大人のいうことを聞いて勉強し、スポーツも出来、誰にでも優しい、そんな理想像を勝手に作り出し、それに近づくことが自分の幸せと思い込んでいるだけじゃないでしょうか。必死になって「いい子ども」を演じ続け、演じることに疲れ果てているのが現状じゃないでしょうか。不安とは、「これでいいのか」という真実からの呼びかけです。人間には頑張って出来ることもあるし、出来ないこともあります。完璧で完全な人なんかどこにいるのでしょうか。

「未熟で生まれ未熟で死んでいくのが人間」(真城義麿)

 人間は未完成、未熟だからこそ尊い存在なのです。間違うから、失敗する存在だからこそ、豊かなのです。間違うことが許されない社会は息苦しくて窒息しそう。人生はやり直しのきかない、誰にも代わってもらえない、かけがえがないから尊いのです。その人生の主人公であることが大切なのではないでしょうか。

 人間は比較するという性格を持っています。自分と他を比べて、人よりも上なら得意がり、下なら腹が立つ。どちらにいても安心できずに、いつも不安と恐怖の中でいのちが委縮しています。比べるのは自分と他だけではなく、若くて健康な自分を善しとして、年をとり病気にかかった今の自分はつまらないと、自分で自分自身を切り捨てようとします。自分で自分を受け入れられないのが、一番悲しいことです。

「如来さんは私たちに難しい注文をしておられるのではない。決めんこっちゃとおっしゃっているのだ」(高光一也)

 私たちは外のもので苦しめられていると思っていますが、実は物事に自分の思いで善し悪しをつけて苦しんでいるのです。出来ない自分が情けないと自分を卑下する思いに縛られているのです。その握りしめたものを離してみなさいと、仏さまは教えてくださっているのです。

「色々な業縁の中で、いつでもない今、どこでもないここ、誰でもない私自身を自分と出来ない。そのことを空過しているという」(竹中智秀)

 「自分探し」という言葉があります。それは今の自分とは違う本当の自分がどこかにいるのではないかと模索するのですが、実は本当の自分はどこか別にいるのではありません。今の自分自身を引き受けられない自分がいるだけなのです。「空しさ」を感じるのは、空しく生きたくないからです。

 いつでもない「今」、どこでもない「ここ」、誰でもない「私自身」と我が身の事実を受け止めて、いのちいっぱいに生きる、これこそいのちそのもののねがいなのではないでしょうか。そのねがいに目覚めて、そのねがいに生きる者になる。他人からの評価ではなく、賜ったいのちを無駄にすることなく完全燃焼したいという自分自身への深いうなずきこそ、本当に求めているのではないでしょうか。

「にんげんはねぇ 人から点数をつけられるために この世に生まれてきたのではないんだよ にんげんがさき 点数は後」(相田みつを)

 私たちが仏教で学ぶのは競争社会を生み出す向上の道ではなく、すべてのものが無条件に受け入れられる向下の道です。人間は偉いのではなく、尊い存在なのです。勉強が出来なくても、年をとっても、病気になっても、何一つ人間の価値が下がることはありません。すべての生きとし生けるものが、みな同じく斉しく尊いのです。その世界の中では人は安心して生きていけるし、死んでいくことができるのです。

 向上の道は競争の道です。他人よりも上に行くために、他人を蹴落とし、うらみ、妬み、そねみで満ちた世界では人間は生き生きとは生きられません。「あなたはあなたのままでいいんだよ」と受け入れられた時、人間として生まれたことの意味を実感し、生きているそのことを心の底から喜ぶことが出来るのではないでしょうか。

「くらべず あせらず あきらめず」(竹中智秀)

 私たちは誰のためでもない、自分のために生きるのです。今まで自分の人生に唾をはきかけていたものが、軽蔑することなく、本当に自分自身を大切にして尊重していく者になっていくのです。自分を愛せないものが、他人を愛することなど出来ません。本当に自分を愛することができれば、周りの人をも尊敬できるのです。

「『発菩提心』とは、このまま腐って終わりたくないということ」(竹中智秀)

 まさに今回の「自分らしく生きるには、どうすればいいでしょうか?」という問いこそ、真実に生きたいとねがいながら、現実はそれに背く生き方しか出来ていないわが身の在り方への、いのちの奥底からのうめき声、悲鳴なのではないでしょうか。「こんな生き方は嫌だ」といのちが叫んでいるのです。その声なき声を聞き続けていく。答えが見つかれば、そこに腰を下ろしてしまい歩みが止まってしまいます。答えが見つかることが救いではありません。一生かかって明らかにしなければならないいのちそのものの問いが明らかになることが救いなのです。その問いをもって道を求める存在こそ、人間というのではないでしょうか。

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