40.信仰につきまとう問題

桂川 正見(東北教区)

■無明の闇

 東日本大震災の直後から、私は被災地支援に関わっていました。支援を続ける中でこのまま続けていくのが嫌になり、苦しくなった時期がありました。しかし、義務感や使命感のようなものに追われていたのでしょうか、少し休もうという発想はなく、嫌な気持ちのまま何とか続けていました。そんな中、支援を終えたある晩、被災地の仮設居酒屋で食事をしていた時に、ともに支援を続けていた先輩に自分の気持ちを打ち明けました。先輩は黙って私の話を聞いた後に、「被災地の人と一緒に酒を飲むだけでも良いから」と応えてくれました。

  私は人を支援する者と支援される者に分けて考えていたのでした。そして、支援する側の私は支援される側の被災者に寄り添える人であらねばならないという義務感に自分勝手にとらわれていたのです。また、続けるうちにいつの間にか、支援することは善いことで正しいことだから、それをしている私は正しい、善い人間だというプライドだけが大きく膨れ上がっていたのでした。私はそういった思いに自分自身が押しつぶされて、支援を続けていくことが億劫になっていたのではないかと思いました。

  仏教では「無明の闇」と教えます。「無明」とは人間の根本煩悩です。明るさが無いと書きますから、暗いことを言います。物事に詳しくないことを知識に暗いと言ったりしますから、「無明」は一見すれば、知らないことの暗さを言っているように思うかもしれません。しかし、反対なのです。「無明」とは、「私は知っている」という暗さを言います。そして、その暗さに自分一人では気付くことがないから「闇」と言うのでしょう。

  この善いこと(正しいこと)をしている自分は善い(正しい)人間である、また本当のことを知っている自分は偉く、すぐれた人間であると思い込み、信じて疑わない在り方もこの「無明の闇」という人間の姿なのでしょう。

■宗教がカルト性をもつとき

 信仰という場面においても、「無明」は十分に発揮されます。

 宗教は、神や仏という、いわば人間を超越したような存在が登場します。そして、神や仏によって人間が救済するということを説いたりします。そして、神や仏を信じること、たのむこと、依りどころにすることを信仰と言います。信仰には、神や仏の教えを聞き、その教えに基づき生活の中で実践するということがあります。教えを聞き、実践していくうちにこの宗教は正しい、すばらしいと思うこともありますし、出会えてよかったと思うこともあります。特段、不思議なことではありません。むしろ、教えを聞いて感動することは大切なことだと思います。しかし、正しい教えを聞く私は正しい人間であると思い違いをし、信じてしまう「無明」はいつもこの私の内にひそんでいます。この私を救済してくれるような、真実で正しい教えに出会い、知り、信仰できたという気持ちが、いつのまにか私は特別で、正しくて、すぐれた人間という優越感で膨れ上がった自分に変えてしまうことがあるのです。信仰においては、神や仏という特別な存在を媒介するがゆえに、優越感がとても強固になり、差別的な感情や思考に支配されているといっても良い形で表にあらわれてくることがあります。

 例えば、「自分は仏の救済にあずかる側の人間だが、この信仰を持たない彼らは私より劣っている人間なのだ」とか「世の人も早く信仰に目覚めて、私のように神の祝福を受ける側の人になれば良いのに」とか「(信仰がない)彼らはかわいそうな人だから、私たちが信仰を伝えて正しい道に導いてあげなければならない」などです。そして、これが集団となれば、組織的に「私たちの(正しい)信仰を批判するお前は悪である。お前の言葉を世に送ってしまうと救われる者も救われなくなる。だから絶え間なく電話やFAXをして通信手段をまひさせよう」と、これは過去に実際にあった事件ですが、攻撃的になり、カルト性が強くなります。この時も、正しい信仰をしている私たちは正しい人間という気持ちでしているのです。

(反対に、正しい教えを聞いているのだが、私は信仰が十分でないと強い劣等感を抱いたり、またこのままでは救われないという恐怖に支配されるという問題もあります。同質の問題として考えてみてください。)

 これは宗教ではありませんが、コロナ下において、「コロナウイルスは計画されたもので、ワクチンによっての人口削減が目的」とか「ワクチンにはマイクロチップが含まれていて人間を監視するため」といった陰謀論が出回りました。私たちは環境の急な変化には不安や抵抗感を抱きます。陰謀論を信じてしまうのも、実は現実から目をそらしたいという気持ちからかもしれません。ところが、信じた人の中には、本当のことを知った私は知らない人に教えないといけないという正義感が生まれ、「マスクはしなくていい」と周りを戸惑わせたり、実際にワクチン会場を襲撃した事件もありました。

■善人なおもて往生をとぐ(善人でさえ往生をとげる)

 『歎異抄』第3章では、これらの信仰姿勢を「善人」といい、「自力作善のひと」と押さえています。自分が善をしているうちに、自分には善をする力があり、善人と思い込んだ人を言うのです。『歎異抄』は、親鸞聖人の念仏の受け止めや信仰姿勢に異なっていることを歎いた唯円(※親鸞聖人の弟子)が書き残したものです。教えをよく分からないで間違ってしまうこともあるでしょうが、自分は教えを十分に知っているという自信から、自分より教えを知らないだろうという人に対し「学びが少ないあなたの往生はどうだろうか」と言い驚かしたり、まどわしたりすることがある。「善人」こそが教えをまげていくのです。唯円が悲しみ歎いているのは、むしろそういう信仰姿勢の人なのです。

 そして、「自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつる」ことが信仰の課題であるとおっしゃっています。「ひるがえす」とは消えて無くなることではありません。消えたと思ったら、裏側にしっかりとあったということです。「善人」と自分の信仰姿勢を知ったとしても、私は知ったという心がまた自分を「善人」に仕立てていくのでしょう。つねに教えを聞く私のその姿勢を問うて来るのです。

 人間が最も危ない時は、私は正しい、本当のことを知ったというところに立ってしまうときではないでしょうか。

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