41.菩薩について

阿賀谷 友宏(大垣教区)

はじめに

 「菩薩」というテーマを考えてみたいと思います。皆さん、「菩薩」がつく言葉を思い浮かべてみてください。有名なところでは「観音菩薩」とか「地蔵菩薩」とか、「文殊菩薩」ですね。他にも、「虚空蔵菩薩」とか「般若菩薩」という人もいます。真宗では「法蔵菩薩」がよく知られています。

 「観音さま」や「お地蔵さま」は特に有名です。では菩薩のような人というと、どのようなイメージを持たれるでしょうか。例えば「優しい」とか「穏やか」とか、教え導いてくれるような人格者のイメージを持たれることが多いのではないかと思います。

 しかし、観音さまについての教えが書かれた『観音経』というお経には、「悲体戒雷震」という文言もあります。古来この箇所は「悲体の戒めは雷震のごとし」と読まれてきました。すなわち、観音さまはお優しいんだけれども、ただ優しいだけではなく、自他を戒める際の凄烈さは、あたかも雷のようですよ、という意味にも読めます。とはいえ観音さまのことですから、雷のようにといっても感情的に怒鳴り散らすわけではなく、指摘される内容が本質的で、聞く側に「刺さる」ということなのではないでしょうか。

 というわけで、菩薩といっても、ただただ優しいだけの人のことでもないようです。では「菩薩」という言葉に向き合ってみましょう。

「菩薩」という語について

 「菩薩」とは、元々はインドの古い言葉(パーリ語とかサンスクリットといった諸言語)で「ボーディサッタ」とか「ボーディサットヴァ」等という言葉でした。仏教が漢字圏へ伝わる過程で、これらに類する語句の発音を漢字に置き換えて「菩提薩埵」となり、また「菩薩」という語も登場します。

 ボーディサットヴァ(bodhisattva)は「ボーディ(bodhi)」と「サットヴァ(sattva)」という、別々の単語が合体したもので、複合語と呼ばれる語句の一つです。「いちごみるく」みたいな感じですね。

 ボーディとは「悟り」、サットヴァとは「生きもの(衆生、存在者)」というほどの意味ですから、大まかな意味では「悟りを目指している生きもの」、「悟りへ向かっている生きもの」です。つまり菩薩とは、ブッダの境地を目指している、その途上にある生きもののことを指します。「生きもの」ですから、人間に限らないのです。さらに注目してほしいのは、語句としては悟りへ向かっている指向性、いわば「方向性」のニュアンスが核になっていることです。元々はブッダになる前のお釈迦さま(釈尊)個人を指す言葉でした。

 「ジャータカ」という、たくさんの物語が収録された古い文献があるのですが、ここには釈尊の無限の過去からの菩薩としての歩みが語られています。

 ある時はウサギとして、ある時は馬として、大木に宿る精霊として、少年や少女として…。数えきれない輪廻を繰り返しながら、どんなに時間がかかっても、どんなに不器用でも、どんなに回り道をしても、悟りを目指すことはやめなかった一人のサットヴァ(生きもの)の物語が綴られています。このように仏教が人を見つめる眼差しは、その時間の幅が非常に長大なことも特徴的です。長~~い眼で見ているのです。

大切なのは自発性と方向性

 どんなことにも始まりと終わりがあります。「ジャータカ」では、釈尊の菩薩としての歩みの始まりは、ディーパンカラ・ブッダ(燃燈仏)という往古の覚者との出会いからだと語られています。釈尊が過去世においてスメーダという名の青年だった頃、燃燈仏に会って感動し、「私もあの人のようになりたい」と”自ら”志します。燃燈仏もその心に応え、若者を激励します。スメーダが菩薩になった瞬間でした。注目したいのは、スメーダが燃燈仏から得たのは特別な知識や技術ではなく、いわば自己の歩みの「方向性」だったという点です。さらにこの”自ら”ということも大切で、三帰依文にも「自ら仏に、法に、僧に帰依したてまつる」とあります。「親に言われて帰依したてまつる」でも、「上司に言われて帰依したてまつる」でもなく、「自ら」なのです。そこに自分の意志はあったか。自分の理性で考えたのか。ここをはっきりさせておかないと、私たちは何か都合の悪いことがあると、すぐに他責性と被害者意識にとらわれてしまいます。

 自ら方向性を得て、歩みを始めるとき、サットヴァはボーディサットヴァになるのです。

 釈尊なきあと、時代が経過するにつれて、菩薩とは釈尊だけでなく、誰もが菩薩になれるという思想が起こり、広まってきます。こうして観音さまやお地蔵さまなどのスターが現れるのです。

菩薩が私たちに教えてくれること

 菩薩としての歩みは、のちに「波羅蜜」という徳目に具体化されていきます。しかし重要なのは、仏教の実践は成果主義ではなく、点数をつけて優劣を競うものでもないということです。各々が、いかに自分の課題と向き合ったか、いかに仏教を通して内観したか、その方向を向いているかどうかが重要です。隣の人より早いか遅いかは問題ではないのです。自分が問うべきことを問うたか、です。期限もありません。限りなき歩みです。釈尊ですら途方もなく長い時間をかけたのですから。ジャータカにおいても、菩薩時代の釈尊を採点する上位存在はいません。つまり、世間的な評価のモノサシとは別次元の世界がそこに広がっているのです。

 菩薩が現代を生きる我々に語りかけているのは、「あなたはどんな方向性を抱いて歩みますか」ということではないでしょうか。方向性といっても大げさなものではなく、たとえば「将来どんな仕事に就くかは分からないけど、初めての給料が出たら、おばあちゃんにご馳走してあげることは決めてるんだ」とか、「自分は流されやすいから気をつけたい」という危機感を持ち続けるとか、抽象的なものでもよいと思うのです。またその内容も変わっていくかもしれません。それでも、いま自分はどこへ向いているのか、そしてそれはなぜなのかということは、胸に抱いていたいものです。想像してみてください。あなたは今、広々とした原っぱで、きもちのいい風を浴びています。ゆっくり眼を開いて、さあ、あの山へ向かうか、海へ出るか、森に憩うか。いちど立ち止まって考えてみませんか。

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