42.誰一人見捨てられることのない世界

久保山 善友(九州教区)

●苦しみを見知って励ましてくれる者

 新型コロナウイルスが広がって、それに伴う感染症だけではなく不安や恐怖や不信感も私たちの世界を覆っているように感じます。

 私の住んでいる小郡市出身の作家、帚木蓬生(ははきぎ・ほうせい)さんが書かれた『天に星 地に花』という作品があります。主人公は江戸時代のお医者さん庄十郎。少年のころに天然痘にかかり、自身は助かったものの母を亡くし、それがひとつのきっかけとなって医者の道を志します。その時に助けてくれた先生に弟子入りした庄十郎が先生から教えてもらう言葉が印象的でした。

 「庄十、人ちいうもんは、苦しみばじっとひとりで耐えるのはむつかしか。誰かひとりでも、そん苦しみば見知って励ましてくるる者がおると、何とか耐えて行かるる。よかな。してやるるこつがなかでも、それだけはしてやるる。何か薬ばくれと、病人はよく言う。薬がないと医者じゃなかち、医者自身も思っとる。そりゃ、間違い。庄十、お前自身が薬たい。よかな」

 江戸時代から比べると現代は医学薬学ともに格段に進歩しているわけですが、「人の苦しみを見知って励ましてくれる者」がいないのであれば、たとえ薬があっても発達した医療があっても、人は苦しみに耐えていくことができないのではないでしょうか。

 考えてみれば新型コロナの話が出る前から社会の格差が広がっているという指摘はありました。「子どもの貧困」「ブラック企業での過労死」ということも報じられていました。しかしどこかで「今困っている人はそれまでの準備不足、努力不足」といったゆがんだ自己責任論でほったらかしにしてきたのではなかったでしょうか。

 神奈川県の津久井やまゆり園で多くの人が殺傷された事件もコロナ以前のことですが、事件の加害者の「障がい者は生きていても周りを不幸にするだけ」というものの考え方は、競争に勝った者だけが称賛され、負けたものは置いてけぼりになる社会から必然的に生まれてくるのでしょう。

 人の結びつきが弱く、助け合いのない社会はウイルスや災害にももろい。

●帰る場所がないから戻ってくる

 ある研修会で「プリズンサークル」という映画を観る機会をいただきました。刑務所の中で受刑者たちが自分の問題点を話し、自分の傷を語り、互いに聞き合っていくことで回復していくプログラムを取り上げた映画です。そこに参加している人たちは今、「刑務所に入っている」という同じ苦しみを味わっているだけではなく、それまでにも「刑務所に入ることになった罪の重さ」や「罪を犯すにいたった環境の厳しさ」という同じような苦しみを味わってきた者どうしです。お互いがお互いの「薬」になっているように感じました。

 受刑者の人たちが犯罪に踏み出す前に、その抱えている辛さや苦しさを、誰かが聞いてくれていたら違ったことになっていたのではないかとも考えさせられました。

 再犯を重ねて刑務所に戻ってくる人の中には帰る場所がないから戻ってくる人がいるのだと、刑務所で勤務している方からも聞きました。刑務所を出る時になっても誰も迎えに来ない中をとぼとぼと歩いていく年寄り。そのうちの何人もが戻ってくる。刑務所に戻れば食事もあるし医者にもかかれる。逆に言えば刑務所を出たら食事も手に入らないし医者も診てくれない。誰も相手にしてくれない。刑務所では少なくとも「被収容者」という人間でいられる。

 戻ってくるにはそれなりの理由があるのだけれど、そのために再犯するということはまた誰かをだましたり傷つけたりすることで、傷つけられた側は服役経験があるというと警戒もするし追っ払おうともするし連鎖が終わる道筋は見えないままです。

●どんな世界が本当に願われているのか

 私たち人間のあり方を「流転」という。大きな川をたくさんの芋が流れている。芋どうしが擦れ合って皮がむけている。よく見るとそれは芋じゃない。人間だ。ごぼごぼと溺れながら転がりながら流されていく。息ができなくて、苦しさのあまり息をつこうとして他の人間をかきむしって水面に顔を出そうとする。自分が息をするためには他をかき分けて、押さえつけて、引き落として、水面に顔を出さなくてはいけない。溺れているから必死なのだけれど、他のそれぞれの人も必死なのだけれど、引きずり落とし合いながら、傷つけ合いながら、転がり流されていく。そこからどうやって抜け出せるのかもわからないまま。

 それじゃあんまり悲しいじゃないですか。

 そんなことの繰り返しのまま死んでいきたいわけじゃないのです。

 「早くコロナ以前の元の世界に戻せるように」とは言うけれど格差の激しい社会、困っている人を冷たく突き放す世界に戻したいわけではありません。

 ならばいよいよ「私にとってどんな社会が本当に望ましい社会なのか」「私たちにとってどんな世界が本当に願われているのか」ということを確かめなければいけない。

 私たちの先輩たちは「阿弥陀如来の浄土=誰一人見捨てられることのない世界」こそが本当に自分の願う、みなともどもに願う世界だと手を合わせてこられたのでしょう。 

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