44.家庭という場所
小林 智光(三条教区)
■家とは
現在、私は両親と妻、そして息子が一人。合わせて五人で暮らしています。現代は真宗寺院に限らず、多くの宗派で寺院=家庭、つまり世襲の形式が取られています。
私自身も子どもの頃から「跡継ぎだから」と言われて育ちました。保育園の頃、当時の園舎で飼われていた金魚が死んでいるのが見つかり、それを先生と一緒に園の花壇の近くに埋めた時に私は手を合わせたそうです。すると先生が「さすがお寺の子だねぇ」と言ったそうです。そして私の息子が保育園の時には、クリスマス会で灯された蝋燭に向かって息子は手を合わせていたそうです。そして「やっぱりお寺のお子さんだねぇ」と言われていました。
昔も今もお寺は「世襲するもの」というイメージがあるようです。
お寺に限らず、戦前は家督相続といって、家長(家の主人)が全ての財産を相続していました。そして完全に男尊女卑で女性には参政権は無く、跡継ぎ以外の二男や三男は土地を分けてもらって「分家」に出るのが当たり前でした。
その為、「どうやって家を存続させていくか」に心を砕く必要は無く、長男がいればそのまま、居なければ何処かから預かってきて後を継がせる事に異を唱えることなく、さながら「人事」のような形でどの家も継承され、地域共同体が存続されていました。
ところが戦後に民法が成立すると個人の権利が尊重されるようになり、誰もが権利を認められて自由に生きることが出来るようになりました。
そうすると当たり前のように行われてきた慣習が意味を持たなくなり、結果として地方には空き家が増えて都会に人が集まるようになりました。
当然、お墓やお内仏が継承される事はなく、家庭の中で法義相続(仏教が繋がっていく)は成り立たなくなりました。
それでは、「家」に縛られる事が無くなった現代の家庭では問題は起きていないでしょうか。
私は時々、ラジオ番組『テレフォン人生相談』を聴いています。この番組はリスナーからの相談に対してパーソナリティーが聴き取り、各界の専門家(弁護士・精神科医・幼児教育研究家)がそれぞれの観点から応える、というものです。
この番組の中で寄せられる相談の9割近くが『家庭の問題』です。中身は離婚や育児・介護・兄弟姉妹の不仲・相続と様々ですが、あらゆる『家庭の問題』に苦悩する方が沢山おられます。
特に子育ての問題は多いのですが、よくよく聞いていると親の問題が子を通して孫にまで影響する事があるようです。例えば虐待の問題を紐解いていくと、親自身が祖父母から虐待を受けていたり、愛されずに寂しい幼少期を過ごしていたり。
そういう自分の問題を解消できないまま親になると、「過去の傷」は形を変えて目の前に現れる。これを番組の中で加藤諦三氏は
「憎しみは冷凍保存される」
と表現されています。これは見てみぬフリをした過去の傷や憎しみ・恨みが何十年も経って解凍されて目の前に現れ、再び自分を苦しめるという事です。
◆仏教の見方
私達は苦しみ悲しみの原因を他人・周囲に求めがちです。「あいつが分かってくれないから」「あの人が聞いてくれないから」と、ついつい他者を責めがちです。もちろん相手が悪い事もあるでしょう。しかし人間である以上100%片方だけが悪いという事は無いはずです。
家庭内、とくに夫婦間の問題について、脳科学者の中野信子氏は「富士山の譬え」という話をされています。
富士山は遠くで見ている分にはとても美しく、神々しくさえ思えます。しかし登山などで近づいてみると、段々とゴミが目に着き始める。汚いところが見えてきます。この場合、富士山には何も変化はありません。変わったのは自分と富士山の距離です。近づいた事で美しく見えていたものが汚く見えているだけの事なのです。これは登山客が増えた事で山内にゴミが増えたのが理由だそうです。
私達人間の問題もこれに似ていないでしょうか。
相手にガッカリするとか腹が立つと言いますが、実は距離感が変わったから問題が見えるようになったに過ぎず、実は最初からその問題は目の前にあったのかもしれません。
問題が見えたという事は、逆に考えればモノの見方が正常になったという事です。問題が見えた事で、人格が一歩成長したと言っても良いのではないでしょうか。
自分の価値観が歪んでいたのでは無いか。モノの見方が偏っていたのではないか。そんな風に自分の内側に目を向ける事によって解決不可能に思えた問題は少し変わってくる事でしょう。
この価値観の歪みや偏りを『煩悩』といいます。
浄土真宗では「煩悩は無くしなさい」とは教えられません。むしろ自分の煩悩と向き合い、煩悩と仲良く生きていく世界を見出す。
外に向かっていた目が自分の内側に向かっていく事でこれからの生き方が変わるのです。