45.真実はどこに?

三浦 央(三重教区)

◆真実に惹かれる

 「真実」という言葉を聞いて、皆さんはどんなことが頭に浮かびますか。「真実」という言葉を辞書で調べると「ほんとう」「まこと」とあります。私にとってほんとうである、まことであるとはどんなことがあるのでしょうか。「真実」について、あまり意識して考えることはありませんが、「とても大切」「何かに潜んでいる」というような漠然としたイメージが浮かんできます。日常生活を振り返ってみると、「ほんとう」「真実」に関する物事について、私たちはすごく気にしているように思います。たとえば、私たちは噂話が大好きです。「実は・・・」「ほんとうは・・・」という話には、つい聞き耳を立ててしまいます。また、本や雑誌、テレビドラマや映画で「真実」という文字や言葉を見聞きすると、ついつい関心が向いてしまいます。「真実」には、不思議と私たちを惹きつける何かがあるように思います。

◆答えを知りたい私たち

 しかし、真実について考えだすと、私だけなのかもしれませんが、はっきりしなくて落ち着かなくなってしまいます。「真実とは〇〇である」という著名な人の言葉を読んで、スッキリはしませんが、こういうものなのかなと納得してしまいます。

 余談ではありますが、娘がまだ幼かった頃、「ナゾナゾ遊び」が我が家で流行りました。ある日、「さんかくなのに、まるいものは、なに?」と娘が訊いてきました。答えが分からず降参をしましたが、娘からは「こたえ、わすれた」との言葉が返ってきました。もう気になって気になって。答えが分かるまで落ち着かない気分でした。

 こういう気持ちは私だけではないと思います。私たちは答えを知らないと落ち着かないのです。私たち現代人にとって、いまや答えを知ることは当たり前であり、知らず知らずのうちに答えを教えてもらうことに慣れっこになってしまっているのかもしれません。だから、真実についても安心するために本当でないものを本当にしているという事があるかもしれません。

◆私の中にとらえようとする

 私は今、真実について何とか表現しようと悩みに悩み、この原稿を作文していますが、どのように書いても納得できない、伝えたいことと違うような気がし、何度も何度も書き直しています。自分の力不足だと、どうしてこのようなご依頼を引き受けたのかと悔やんでおりました。真実とは何だろうと考えれば考えるほど、ああでもないこうでものないと悶々とし、落ち着きませんでした。そんな中、フッと、真実というものが私の考えや言葉には、はまらないのではないかということに気が付かされました。

 私に真実があるのではなく、真実が私の在り方を知らしめ、導くのであると、親鸞聖人は『涅槃経』の一文を『教行信証』に引用されています。

 「真実」というは、すなわちこれ如来なり。如来はすなわちこれ真実なり。
 真実はすなわちこれ虚空なり。虚空はすなわちこれ真実なり。
 真実はすなわちこれ仏性なり。仏性はすなわちこれ真実なり。
(『真宗聖典』227頁)

 真実を言い換えれば虚空であるとおっしゃっていますが、真実は私の知識や経験で理解したり、ましてやこうだと掴んだりできるようなものではないということなのでしょう。私なりに何とか説明しようとしていましたが、自分の中にないものはどのようにも表現できません。そのように思えたとき少し肩の力が抜けたように感じました。

◆真実がはたらきかけてくる

 引用文には、さらに真実は仏性、つまり仏になる種(因性)であるとあります。如来より賜りたる信心にて浄土往生するのだから、他力の信心も、その信を回向する如来も仏性であり、真実であると親鸞聖人は教えてくださいます。ですから「真実」は、私たちの中にあるのではなく、常に私にはたらきかけ浄土へと導いてくださるものといえるのではないでしょうか。

 『正信偈』に「貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり。」(『真宗聖典』204頁)とあります。真実と私たちの間には「貪愛」や「瞋憎」といわれる煩悩が立ち込めていると述べられています。「貪愛」は、欲するままに貪り、執着する心です。「瞋憎」は、怒り憎む心です。

 私たちの日常にはこれらの煩悩が様々な形をとって湧き出てきます。望みが満たされないことに不平不満を抱き、おかれた境遇に怒りを覚える。「わかってくれない」「こんなはずじゃなかった」「どうして私だけこんな目に」と、そんな思いにいっぱいいっぱいになり、悩み苦しんでいます。

 そんな私たちに真実の光は直接には届きません。しかし、煩悩を雲霧と譬えてあるように、その先にうっすらと明るさを感じることができるのです。その明るさは微かかもしれません。しかし、どんなに煩悩の雲霧が厚く垂れ込もうと、真実の光に照らされている限り、絶望の真っ暗闇になることはありません。その明るさがあるからこそ、悩み苦しみながらも、明るさの源である真実を求め、同時に私たちが本当に「何を望み」「どう生きたいのか」を問われる歩みが始まるのでしょう。

法話ブックの一覧に戻る PDF 印刷用PDFはこちら