46.不安と安心

山田 恵文(三重教区)

●不安とは

 「安心」。このテーマで文章を書いてくれませんか、と私に依頼がありました。引き受けたはいいものの、果たして締め切り日までにきちんとした文章を書けるのかどうか、正直、私の心は「不安」でいっぱいになりました。だからといって放棄するわけにはいきません。ですので、不安を抱えながら、この文章を書き始めました。

 安心の対義語は不安です。みなさんはどんなことに対して不安を感じることがありますか。今回の私の場合は、仕事が与えられて責任を果たすことができるのかどうか、という不安です。このような些細な事例にあるように、私たちは日々生きる中で、様々な不安(または心配事とも言えるでしょう)を抱えて生きています。

 無事、合格できるだろうか・・・友達ができるだろうか・・・など、人生の節目節目にある受験や入学、卒業や就職に関わって生まれる不安がありますし、社会人ならばノルマを達成できるだろうか・・・業績を上げることができるだろうか・・・という不安(心配事)がつきまといます。また、まわりに流されて生きているように感じて、こんな生き方でいいのだろうか・・・と人生に対する漠然とした不安を覚えるということもあります。

 一概には言えませんが、不安とは、先(未来)が見えないこと、つまり未知の領域に対して生まれる感情であるとも言えるのでしょう。この先の未来において、自分が望まざる状況に、身を置かざるを得なくなってしまう、そのことが恐ろしくて不安を覚えるとも考えられます。

 私たちは常に先が見えない人生を生きているのですから、きっと不安から逃れることはできないのでしょう。ならば、不安から逃れることよりも、不安とともに生きるすべを求めるべきであると思います。では、そのような手だては、あるのでしょうか。これを仏教の視点から考えてみます。

●私を支えてくれる場所

 今から約2000年前に成立した『仏説無量寿経』という経典には、法蔵菩薩という主人公が登場します。菩薩とは、苦しみ悩む者たちを救い、悟りを目指して修行する者のことです。

 法蔵は、次のように言います

 一切の恐懼に、ために大安を作さん(『仏説無量寿経』/『真宗聖典』12頁)

 不安を抱えて生きるすべての者たちに、大きな安らぎを与えたい、と。このような大いなる願いをもって、法蔵は修行を行い、浄土という世界を作ります。すべての者が安心して生きることのできる世界を作って、安らぎを与えようとするのです。これが『無量寿経』の内容です。

 この話が指し示していることは、私たちが安心を得るためには「場所」が必要であるということです。では、それは一体どのような「場所」なのでしょうか。

 私自身の経験で言えば、その昔、大学での授業で、ある学生が次の言葉を紹介してくれました。

 「救われるということは場所を給わること」(宮城 顗)

 人生を安心して生きるためには、「場所」が必要であるということを教える言葉です。心に残っている言葉としてこれを紹介してくれたのですが、その理由は次のようなものでした。

 その学生は、授業での発表課題がうまくできず落ち込んでいたときに、家族や友達と話す中で立ち直ることができたという経験があったようです。そして、この言葉に出会って、「私には、私のことを心配し支えてくれる人々がいる、この人々とのつながりが私にとっての救いの「場所」であるということに気づいた」と述べていました。この学生は自分の経験を通して、信頼できる人々とのつながりが私を支えてくれる「場所」であると受け止めたのでした。そして、そのような人々とのつながりがあることが、私の救いになっていると気づいたのでした。

 この話から私自身思ったことは、人生には、うまくいかないこともあるし、失敗をしてしまうこともある。そんなときに、自分を無条件で信頼し応援し支えてくれる人がいることで、人は立ち上がることができる、ということです。そして、この経験と気づきは、きっと、その後の人生においても、大きな力になるのではないかということです。

 ここに不安の人生を生きるヒントがあると思います。

●不安とともに生きる

 先ほど確かめたように、私たちの人生において必要なのは、不安を抱えながらも生きる手だてです。この学生のように、自分を無条件で信頼し応援し支えてくれる人がいれば心強いですよね。どのような不安な出来事を抱えていたとしても、うまくいかないかもしれないという恐れがあったとしても、支えられているという安心感から一歩踏み出すことができる。大切なのは、この学生のように、すでに自分を支えているもの(こと)を見出すことにあるのでしょう。そして、それを自分のよりどころとして信じられることにあります。ここに私たちの人生の課題があります。

 この学生は、自分を無条件で信頼し応援してくれる人々の存在が、私を支えるよりどころ、つまり「場所」になっていると見出しましたが、他にもいろいろ考えられそうですね。私を支えてくれる「場所」、それは一体どのような場所であるのか、それぞれ自分の経験を通じて考えることができるのではないでしょうか。

 いずれにしても、不安とともに生きる上で、自分の大地となるような「場所」が必要であるということ、その「場所」を見出すべきであること、そして、その「場所」に信を置くべきであること、そうすることで、どのような人生の課題があったとしても人は歩んでいくことができる、こういうことを教えてくれるのが浄土仏教であると私は思います。

 ちなみに、親鸞聖人は無条件に存在を肯定する阿弥陀の願い(本願)を信じて生きた仏教者ですが、その心境を次のように述べています。

 心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。(『教行信証』/『真宗聖典』400頁)

 私の心を、本願の大地にうちたてて、私の思いを海のように広大な不可思議の教えに流します、と。この言葉からは、阿弥陀の本願を自分を支える大地として見出し、不安の絶えない人生を生き抜いていった、そんな親鸞聖人の生き方が見えてきます。

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