47.「本願の心」を知る学び
花園 一実(東京教区)
■何のための学問か
仏教を学ぶことは一般学問を修めることとは違いがあります。そのことが『歎異抄』という書物に書かれています。
『歎異抄』第12章では念仏往生と学問の関係が取り上げられています。発端となったのは、当時、門弟たちの中に多く生まれていた、次のような誤解でした。
経釈をよみ学せざるともがら、往生不定【『真宗聖典』(東本願寺出版)631頁】
いくら念仏往生と言っても、経典や解釈書をしっかり学ばなければ、結局は往生が定まらないのだ。このような考えのもとで学問に励んだり、あるいは周りの人を惑わせる者がいたと言われています。しかしこのような考えは「不足言の義」、つまり論ずるに値しないような、全く間違った考え方であると、ここでは厳しく退けられているのです。
それはなぜでしょうか。世間では、たくさん勉強すればいい学校に入れるし、いい仕事に就くこともでき、安定した暮らしができるようになるでしょう。同じように、たくさん聖教を読み、理解を深めていけば、往生もより確かなものになっていくに違いないと考える。これは一見すると当たり前のことのように思えます。しかし、それは「他力」というものを、根本的に誤解してしまっているのだと、ここでは教えられているのです。その他力の教えとは、
本願を信じ、念仏をもうさば仏になる。【『真宗聖典』(東本願寺出版)631頁】
という一言に尽きていると言われます。この道理に頷く以外に、何か特別に学問を必要とするわけではない。むしろ、この道理に迷うものこそが、学問をして「本願の心」を知るべきだというわけです。
これは、念仏往生において学問が無駄だと言っているのではありません。むしろ「あなたは何のために学問をするのか」と、その足元の意味を問うのが、念仏の教えなのです。そこで、まず私たちが「学ぶ」ということの意味について、少し考えてみたいと思います。
■身に付ける学び
一般に私たちが考える学びとは、自分の至らない部分を補うための「身に付けていく学び」だと言えるでしょう。読み書きを身に付け、社会常識を身に付け、仕事に必要なスキルを身に付ける。それは社会の中で円滑に生きていくために、とても重要なことです。
しかし同時に、その学びの方向性は、人間特有の苦しみを生み出してしまいます。身に付けたものを自分の価値に置き換え、周りと比べてしまう。その結果、自分自身ではなく、自分が「何を身に付けているか」という付加価値の方が中心になってしまうのです。
現代ではSNSでのコミュニケーションが盛んです。華やかな生活の様子を公開すれば、フォロワー数が増え、自分が認められているように感じて、嬉しくなるものです。しかし、無理をして自分を飾っていると、いつしか「人にどう見られているか」ということが、自分の価値になってしまいます。しかし、どんな時でも自分を一番近くで見てきたのは自分自身なのです。その自分が「こんなの本当の私じゃない」と、自分を認めてあげることができない。これほど辛いことはありません。
自分に付加価値をつけていく学びの方向性は、私たちの中の「比べる心」を激しく呼び起こします。そして生きることの価値基準が「誰かと比べること」にスライドするとき、私たちの存在基盤は激しく動揺します。なぜなら、いつかは老い、病み、死んでいかなければならない身を生きる私たちは、そうやって苦労して身に付けたものも、必ず手放していかなければいけないからです。そういうものを基準にしている限り、私たちの心が本当に安住することはない。必ず行き詰まってしまう時が来てしまうのです。
■「本願の心」を知る学び
もう一つの学びの方向性。それが「本願の心」を知る学びです。親鸞聖人は、このことをより具体的に、
しかるに『経』に「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。(『真宗聖典』240頁)
と示されています。「仏願の生起本末」、つまり阿弥陀如来はどのような存在のために本願を建てられ、またそれがどのような形で私たちの上に届けられているのか。そのことを教えの中に聞き尋ねていく。それが「本願の心を知る学び」です。これは「自己を教えられていく学び」と言い換えてもいいかもしれません。
中国の善導大師は「教えとは鏡のようなものである」(観経疏)と言われました。肩書きや能力など、これまで身に付けてきたものを全て取り払った、自己の真実のあり方を映しだすものとして、仏教の教えがあるのです。例えば『大無量寿経』には、次のような言葉があります。
屏営愁苦して、念いを累ね慮りを積みて、心のために走せ使いて、安き時あることなし。田あれば田を憂う。宅あれば宅を憂う。(『真宗聖典』58頁)
「屏営」とは、不安でそわそわと落ち着かないこと。心配事ばかりで、心は常に忙しく走り回り安らかになることがない。苦労して何かを得たのなら、今度はその得たものを維持する為に、より大きな不安を抱えていくことになる。物質主義的な現代の苦しみが見事に表されているお経の一節ではないかと思います。
そういう教えの中に、人間の業や、自分自身の偽りなき真実の相が教えられていく。これが、経典を鏡とするということです。そして、教えによって自己を知るということは、同時に、そのような私のためにこそ、阿弥陀如来は願いを建てられたのだという、本願の心を知ることでもあります。その本願の心はいま「となえやすくたもちやすい」、「南無阿弥陀仏」の六字の名号として、この私の上に届けられています。学問的な理解ではなく、そのような宗教的事実に出遇った信の一念こそが「往生の要」であり、そのことが『歎異抄』では「本願を信じ、念仏もうさば仏になる」と言われているのです。
競争社会の中を生きる私たちは、学問した理解の先に、本当の念仏があると思いがちです。その延長上に、念仏さえも自分のスキルとして身に付けようとしていませんか。念仏の教えは、そのように全てを自分のものとして所有しようとする、私たちの発想自体を問うていると言えるのでしょう。