48.問いを持つ

伊藤 智(北海道教区)

《生徒から教わる》

 私は普段、宗教科の教員として中高生と向き合いながら授業をしています。その授業の一環で、毎回生徒に感話(自身の経験から考えたこと、感じたことを話すこと)をしてもらうのですが、この時間に教師である私自身も多くの気づきをいただきます。

 「どうして頭髪検査をしなければいけないのか」「なぜ勉強をしなければいけないのか」「どうして人は死ぬのか」などの素朴な疑問や宗教が課題とする深い問いを、それぞれの経験を通して思いのままに話してくれます。そんな10代の感性豊な感話を聞いて、大人の私はどれだけ目先の現実的関心のみに心が奪われてしまっているのだろうと感じます。「どのようにして仕事を早く終わらせるか」「どのようにしてこの場をやり過ごすか」「どのようにして周りに認めてもらうか」など…。そんな自分が浮き彫りになって、毎回非常に情けない気持ちになります。生徒が教師から学ぶのは当たり前ですが、教師が生徒から学ぶことも多いのです。

《「どうして」という問い》

 「人は加齢に応じて『問い』が変化する」(『あなたがあなたになる48章』/東本願寺出版)と真城義麿先生はおっしゃっています。青年期真っ只中の中高生は、「なぜ・どうして」という意味や目的を尋ねる問いに向き合い悩んでいる子が多い。しかし、それが社会に出て大人になっていくにつれ、その問いは「どのようにして」という結果をうまく獲得するための手段や方法へと変化していきます。

 社会に出てからの私は、何か問題が起こってもその問題をどのように解決するかということばかり考えてしまい、その問題の根本的な部分「なぜ・どうして」に目を向け考えることを避けてばかりな気がします。

 実業家の植松努さんという方は、ある講演会で次のように語っています。「教育ってなんでしょうか。教育っていうのは、失敗の避け方とか、責任の避け方っちゅう要領のいい生き方を教えるためのHOW TOでしょうか?全然違いますね。教育というものは、死に至らない失敗を安全に経験させるためのものだったんです。でもそれがすっかりおかしくなってしまったんです。なぜかというと、失敗をマイナスだと思っている大人がたくさんいたからなんです。」

 手段や方法ではなく、その根本にある意味や目的を考えていくことが、教育の場には必要なのでしょう。これだという答えがすぐには出ないかもしれないし、それが結果的に失敗に繋がってしまう場合もあるかもしれない。けれど、必死に「どうして」という意味探究をしていくことが、中高生に限らず大人である私、全ての人間にとって重要な営みなのだと思います。感話は、そのことを再認識させてくれるとても大切な場でもあるのです。

《問いの向き》

 「自己とは何ぞやこれ人世の根本的問題なり。」【『清沢満之全集』(岩波書店)】

清沢満之先生は、自己に対しての「なぜ・どうして」という問いは、力を尽くし明らかにしていかなくてはならない人の世の根本的問題なのではないかと、私たちに投げかけてくれています。生徒にこの言葉を紹介した時にはよく、「私のことは私が一番わかっているから、そんなこと改めて考える必要ないですよ」と親切に教えてくれるのですが、果たして本当にそうでしょうか?先日、放課後に生徒達と自分の好きな音楽についての話をしていました。そこで、私の知らない様々な曲を教えてもらっていたのですが、「なんでこの曲が好きなの?」と質問したところ、「みんなが聴いているから聴いてるだけ」との回答が返ってきて、少し悲しくなったことがありました。自分のことはわかっているつもりでも、社会や流行の中に存在する、「みんな」という曖昧な包みの中に埋没してしまうこともあります。そしてその自覚がない人は、知らず知らずのうちに自己を見失っていくことになるのかもしれません。

 解剖学者の養老孟司さんは、自己とは地図における「現在位置の矢印」と表現されています【『「自分」の壁』(新潮新書)より】。自分は今どこにいるのか。それを示す矢印に過ぎないということです。しかし、この矢印がないと自分がどこにいるのかはわかりません。目的地があっても、どの方角に進めばいいのかもわかりません。だからこそ、「どうして」という意味探究の問いを持ち、その対象を自己に向けていく。それが最大関心事になっていけるような歩みを続けていかなければならないと思います。今みなさんは、問いを持ち自分自身と向き合っていますか。

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