50.居場所を求めて
稲垣 洋信(大阪教区)
■世の中が便利になって 一番困っているのが 実は人間なんです 浅田正作氏
パソコンやスマートフォンの普及でインターネット・SNS・オンラインゲームなどコンテンツが充実していますね。そのおかげもあって便利で快適な生活が送れています。しかし、便利で快適なはずのもの(ツール)も使い方によっては、心ない誹謗中傷などのトラブルや、モバイルツールに依存した結果、悩み苦しみの原因となることもあります。生活の一部になっているそのコンテンツに縛られて時間や空間、つながりを失っているのが現代社会ではないか、と私自身利用していて感じています。
例えばインターネット上の情報は、正しい事もあれば曖昧な情報や偽の情報もありますし、SNSに投稿すると「いいね・コメント」を期待して、何度もアクセスしコメントの賛否に一喜一憂してしまいます。また、バーチャルな世界であるオンラインゲームは、ゲームの中で友だちになりグループとなって目標を達成するために協力し、幅広い交友関係が築かれ楽しめるようになりましたが、ゲームのプレイ内容が悪い結果になれば暴言を吐いたり吐かれたり、容赦なくグループ・友だち関係から排除される。そして、そうならない事にとらわれてゲーム自体が楽しめなくなるということがあります。
しかし、このようなことはインターネット上のことだけではなく、もともとは現実の社会の中で起こっている深刻な問題が原因で居場所がなくなり、バーチャルな世界へと逃避するのではないでしょうか。私が思う深刻な問題とは、苦しいことや悲しいことが声に出せない社会であり、差異を認め合えず暴力や争いによって居場所を奪われているということです。そういう息苦しい居場所から逃げたいという思いや、家族に迷惑をかけたくない、大切にしたいと独りになって苦悩するその心を思うと、私たちが本当に安心できる居場所はあるのか、あるとすればどういう場所なのでしょうか。
もし、このつたない文章をご覧の人の中に、今、暴力や争いによって苦しまれている人がいましたら、すぐに地域相談窓口を検索して相談してください。そして、そのことと並行して親鸞聖人の教えを尋ねてください。
■親鸞聖人を訪ねて聞法道場へ
親鸞聖人は、9歳から29歳まで比叡山で修行・修学されていました。それは、自身の居場所を求めて「聖者」になるための道であり、大変な努力をされました。そして、その道のりの末によき人に会い、阿弥陀仏に出遇われて、本当に安心できる居場所に生きることができたのです。阿弥陀仏は出家し修行に励むことや戒律(規律)を守る生活を送ることができない人、辛くて悲しいことを抱えている人、生きとし生けるもの全てをそのままに受け入れて、安心して生きることができる場所に導こうと誓われました。そのお心を正しく知り、信じて仏道を歩まれたのが親鸞聖人です。そして、苦悩していた自らと同じく居場所や道を求めている人々とともに生き、阿弥陀仏のお心をわかりやすく伝えてくださいました。
親鸞聖人が伝えてくださったその阿弥陀仏のお心は、正しく聞いた先達によって現在の私たちに届けられています。そして、お寺(寺院)は、そのお心を聞き、語り合う場であり、それが聞法道場という私たちひとりひとりが生きることを確かめていく居場所なのです。
聞法道場について、『歎異抄』第2章に「とても地獄は一定すみかぞかし」というお言葉があります。この章のあらすじを申しますと、関東の門弟たちが、ただ南無阿弥陀仏と称えることによって安心して生きる場所に行けるという親鸞聖人のお言葉を信じて念仏を称えていたが、親鸞聖人の息子善鸞がお念仏する者を分断させる事件を起こし、また、日蓮上人を中心に「念仏無間」といって念仏を称えると地獄に落ちる、と念仏する者たちの不安を煽る出来事が重なり、関東の門弟たちは、真実を求めて命がけで、京都にいる親鸞聖人のおられる場所を問い訪ねられました。すると親鸞聖人は、「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、法然上人から教えられたことを信じるほかありません」と応え、さらに、「念仏は、浄土に往くための行いなのか、また地獄へ落ちる行為なのか、私は知りません。もし仮に法然上人にだまされて念仏して地獄に落ちたとしても、決して後悔はしません」といい、その根拠を語り、「本来であれば、どのような努力によっても、真実の道理に目覚めることができない身なのですから、私の居場所が地獄であったとしても、それは必然的な居場所なのです」と語られました。そして、この章の結びは「要するに、私の信心はこのようなものでありますから、念仏を信じるのか、また捨てるのかは、あなた方お一人お一人がお決めになることです」という言葉でした。親鸞聖人の御同朋・御同行に対するお心が垣間見えるこの章は、ようするに、煩悩に惑わされる人間の本質を見抜き、僧俗・老若男女を問わず阿弥陀仏のお心を依りどころとしてともに道を歩んでくださり、ひとりひとりが南無阿弥陀仏と確かめ合っていく道をお勧めしてくださるというお話です。そして何よりも、どこに居てもどのような状況であっても、その居場所で阿弥陀仏のお心を依りどころとして生きるのだ、という信念を教えてくださいます。
つまり、生活の不安を抱える人々が、水平に出会い、ひとりひとりが不安を吐き出し、阿弥陀仏のお心を尋ねて互いに生きることを確かめる場所。それが寺院(聞法道場)なのです。
■おわりに
便利で快適に過ごせる現代社会は有り難い反面、息苦しさを感じることがたくさんあります。しかし阿弥陀仏が、出家し修行に励むことや戒律(規律)を守る生活を送ることができない人を必ず救うと誓願してくださっています。また、辛くて悲しいことを抱えている人など、生きとし生けるもの全てをそのままに受け入れて安心して生きることができる居場所に導いてくださると誓い願われているのです。そのお心をたよりにできれば、世の中の人から何をいわれようが、この居場所で生きていくのだという大きな力になるのではないでしょうか。そうすると、奪われ失いつつある時間・居場所・つながりが豊かな時と場の中で、ひとりひとりが差異を認め合う人生を歩むことができると私はいただいています。