4 親鸞聖人が遺されたもの
その後、親鸞聖人は流罪が解かれると法然上人のいる京都へ帰ろうとされますが、その途中で法然上人が亡くなったことを聞かされます。しかも法然上人の葬儀が、旧仏教の古い形式で勤められたということが聞こえてくると、帰る気を無くしてしまわれた。それで、もう一度越後に戻って、やがて関東に向かったとされています。親鸞聖人は非常に勉強家というか、仏教を非常に学んだ人です。関東に行かれた要因の一つは鹿島神宮にあった『一切経』(大蔵経)から浄土教への確信を得ることにあったと思います。
それから60歳になって京都に帰ろうとされますが、帰り着くまでずいぶんと時間がかかっておられています。それは鎌倉幕府に頼まれて『一切経』を校合(きょうごう)していたからではないかと思っています。
やっと帰り着かれた京都は、比叡山の僧兵が闊歩していた時代でした。お坊さんが頭に頭巾をかぶった格好をしていますが、あれは何かお分かりでしょうか。実は袈裟を頭で結んでいるだけなのです。僕も一度絵に描くために法衣屋さんに頼んで、僧兵の格好を再現してもらったことがあります。そのような、刀を持ち、長刀(なぎなた)を持った僧兵たちが目を光らせているのです。親鸞聖人はせっかく京都に帰られましたけれど、関東にいた頃のように行動するわけにはいかなかったのです。
ところで、どうして京都へ帰られたのでしょうか。僕は親鸞聖人が本当はご自分の信念を公の文書として遺したかったからだと思います。親鸞聖人の『教行信証』は漢文です。当時、漢文というのは公文書です。歴史に残すには仮名交じり文ではないのです。また『教行信証』の8割は他の経典や註釈からの引用です。ご自分の言葉というのは本当に少ないのです。自説はできるだけ控えておられるのです。経典などから得た、ご自分の確信だけを書かれたものだと思っています。教えを説くためのお手紙や『和讃』のような仮名交じりで書かれたものとは違うのです。
親鸞聖人は京都へ帰られたけれども、生前に『教行信証』を出版することはかなわないまま生涯を終えられます。しかし、親鸞聖人は仏弟子として我が国で初めての大乗仏教の実践者として、在家仏教を説く者として『教行信証』を世に遺したかったのです。教団をつくりたかったとはお考えにはありませんでした。世にご自分が確信されたことを遺されようとして、僕はこれが親鸞聖人だと思います。