美しいというよりも、尊厳なものに思えた
美しいというよりも、尊厳なものに思えた

顔は見えないが、話のようすから想像すると、40代ぐらいの夫人の方が大きな声で話しておられた。

1人の方は、最近夫を亡くされた方のようである。その方が「私は夫を失ってみて夫の有難さが初めてわかった。夫が死んでから、他人(ひと)からばかにされるし、町内の集まりで座る場所まで変わってしまった。貴女は、その点私よりは幸せだから感謝しなさいよ」と相手の方に話しておられた。

すると「貴女から見たらそう見えるかも知らんが、男も男次第よ。うちの人ときたら、毎日酒は飲む、遊ぶことは上手、それに仏法嫌いで、今日ここへ来るのでも嘘を言って来たのよ、私は何と言っても人間の幸せは自由があるということ。その点貴女は好きなところへ行けるし、私から見ると、貴女の方が幸せと思う」という話が聞こえてきた。

この2人の会話は決して2人だけのことではない。自分の居場所は無意味に思えて、他人の身の上がよく見える。これが人間の立場である。この思いによってどれだけさ迷い続けてきたことだろう。いや、これからもくりかえしていくことかわからない。

私たちは現実という言葉は知っているけれども、実際にはおよそ現実とはほど遠いところに立っている。

現とは時間から言えばいまということであり、空間的にはここということである。今、ここ、それが現在だとわかっていても、さて我々の生活となると、今はつまらん、いつか、ここは無意味で、どこかにすばらしい天地がある、という思いによって生きている。子どもが小さいと、この子が大きくなったら、と夢を見る。さて、その子が大きくなったらどうだろう。素直に返事一つさえしてくれない大人ぶったわが子を見ると、子どもは小さいときの方が素直でいい、とかえってもこない過去をなつかしんで、やはり今は駄目ということになる。

こうしたすがたを仏教は流転(るてん)と教えて下さった。

現実をもたないとは、自己をもたないということである。我々の心の底の願いに目を向けると、どんなに他人の身の上がよく見えても、その人になりたいとは全く思わぬものである。私の中心の願いは、私自身になりたい、と願っているのである。自己自身に。

庭草をとっていると、小さな小さな野菊が一輪の花をつけているのを見て、そっとしておいた。とれなかったのは、力いっぱいに咲いているからである。美しいというよりも、尊厳なものに思えたからである。誰のまねもせず、やせ土に根をおろし、大きくなれない悪条件の中を、力いっぱいに咲いたこの花に、人間の妄念にあけ、妄想にくれるあさましさを教えられた思いがしたからである。

『今日のことば 1975年(8月)』 「力のかぎり生きる いのち尊し」