第十回真宗大谷派ハンセン病問題
全国交流集会にむけて─

 今年四月十九日より、山陽教区姫路船場別院本徳寺、長島愛生園・邑久光明園を会場に「第十回真宗大谷派ハンセン病問題全国交流集会」が開催されます。山陽教区教化委員会・施設交流部スタッフからのメッセージをお届けいたします。
 

ともに一歩を歩みだそう

部長 勝間 靖
 私たち山陽教区の悲願であった全国交流集会を迎えます。ハンセン病問題に関わるということは私自身そこから何が問われているのか? 何を学ぶのか? 逃げることは容易いけれど、愛生・光明両園を訪れ、関わり、交流を重ね続けることでかろうじて踏みとどまっている。これまでの関わりはハンセン病の問題と一括りにしてきた。しかし今回のテーマ『私たちの歩み、そこには人がいる─らい予防法廃止、謝罪声明から二十年─』にあるように、一括りにはできない、一人ひとりの「らい予防法」から弾圧されたそれぞれの人生があり、私たちがそのことに出会ってこそ見えてくる問題があったのだと気づかされた。真宗大谷派は「謝罪声明」を出すのと同時に、国家に対し「「らい予防法」廃止にかかる要望書」を提出して、そのことを最初の一歩としている。しかし宗門人としてはたして真に一歩を踏み出したと言えるだろうか? 今まで関わってくれた先輩、今ともに歩む仲間、そして引き継いでゆくとあらためて回復者の方とともに、真の一歩を踏み出せる交流集会となることを願う。
 

そこには人がいる

副部長 上岸 佑介
 十二年ほど前に父親に「うどんを食べに行こう」と言われ、ついて行った先は香川県の国立ハンセン病療養所の大島青松園であった。
 どういう施設か何の知識もなかった私であったが、園の方々から「よう若い人が来てくれた」と言ってくれたことに、今では恥ずかしくなる思いがある。それから少しずつではあるが療養所に行く機会が増えていき、「(上岸)了さんの息子」と顔を覚えてもらった。今では、妻と一才になる子どもを連れて療養所を訪問し、楽しませてもらっている。
 父親に意図せず連れて行かれたことが始まりではあるが、ハンセン病問題は「もう終わった」ことではない。そこに人がいるにも関わらず見えなくなっていた私の日々の心の問題が見えてきた。「そこには人がいる」という言葉に、大切なことを教えてもらった気がする。今回の全国交流集会には多くの方に参加していただき、一人ひとりのハンセン病問題を語れる場になれば幸いです。
 

一緒にこれからを考えましょう

南枝 尚美
 「南枝さん、私がここにいたことを覚えておいてくださいな」。
 先日、長島愛生園を訪問した時、ある入所者の方と握手をしながら、帰りのご挨拶をしていたら、しみじみとそう言われました。「はい」と返事をしましたが、そのような言葉を発せずにはおれないお気持ちの、その背景には、本名を奪われ、家族とも故郷とも離れなければならなかった現実。それからの長い長い年月の苦しみ、悲しみを感じずにはおれません。現在、全国の入所者の方々の平均年齢は八十四歳です。さらに、悲しいことに、生まれてきた証を奪われ、すでに療養所で生涯を終えられた、たくさんの方がおられます。
 今、私たちにできること、それは、ご門徒やまわりの方とハンセン病問題を語り合い、私たちがハンセン病を発病された方々に強いた苦しみを罪として感じ合うことではないでしょうか。ぜひとも第十回の全国集会に一日でもご参加いただき、回復者の皆さんとともに、これからを考えてまいりましょう。お待ちしております。
 

前をう―大谷派光明会の設立

松岡 彰
 一九三一(昭和六)年、「癩予防ニ関スル件」が大幅改正され「癩予防法」が公布された。すべてのハンセン病患者を強制隔離の対象とし、癩絶滅運動が実施された。
 同時に、大谷派光明会が設立され、教団をあげて国家の隔離政策に追従した。その中の一人が山陽教区出身の武内了温師である。
 武内了温師は、一九二一(大正十)年に「社会課」(解放運動推進本部の前身)を設立し、部落問題をはじめとする社会問題と仏教を結ぶ取り組みに生涯にわたり尽力された方であった。武内師の書かれた『癩絶滅と大谷派光明会』を読むと、単に政策に加担したのでなく、武内師自身が真剣に他者を想う切実な願いが伝わってくる。同時に私は、「正しさ」の危うさをあらためて知らされた。「慰安教化」をされてきた先人たちもまた、当時ハンセン病は恐ろしい病気とされていたのにも関わらず、命懸けで足を運んだことも忘れてはならない。回復者の方々と交流会が行えるのも、常に真剣に取り組んだ先人たちの歩みがあるからだと思う。今の私たちは、先人の過ちを容易に振り返り学ぶことはできるが、批判だけで終わってはならない。この度、山陽教区でハンセン病問題全国交流集会が開催される。奇しくも、来年一月十五日に武内了温師の五十回忌を迎えるにあたり、教区で法要の営みを企画中である。
 

「橋」が語りかけてくること

藤谷 真
 「邑久長島大橋」は全長一八五メートル。車で十秒ほどで渡りきれる小さい橋。邑久光明園・長島愛生園へ足を運ぶ際に何度も通ってきましたが、この橋の持つ歴史・意味・架橋に至るまで関わってこられた方々の願いを確かめていくと、決して「小さい橋」ではないことに気づかされます。
 国立療養所のある長島と本州を結ぶべく一九八八年五月九日に架けられるまでに十七年に及ぶ架橋運動を要した「邑久長島大橋」は、強制隔離の必要のない証として、「人間回復の橋」とも呼ばれます。それは隔離によって人間の尊厳を奪われてきた人々にとっての解放の象徴としてあるだけではなく、ハンセン病問題を自らの問題とする歩みを続けていく私たちにとっての橋でもあるのではないでしょうか。
 交流集会日程中、そして今後の私たちの歩みの中で邑久長島大橋を渡る際に、「人間回復の橋」にかけられた願いに少しでも思いを馳せていただければと思います。
 多くの皆様とお会いできることを心よりお待ちしております。
 

《ことば》
 「自分でエサを拾って食べてみたい。渇望ですね。」

 ある回復者の方が、療養所内で食事を与えられての生活が嫌で仕方なく、どうにかして自分で稼いで自立した生活を送りたかったという思いを語ってくださった言葉です。「エサを拾って」と表現された中に、社会と切り離され人間の尊厳を奪われてきた歴史の厳しさ、悲しみを感じます。
 自身で生計を立てたいということはごく当たり前のことで、誰しもが思い描く生活です。しかし、この当たり前に沸き起こる人間らしい欲求すら許さない、つまり食事を与えられて生活するものだと考えている自分自身がいることを、「渇望」という言葉を聞いて知らされ、ドキッとさせられました。これはハンセン病の歴史や多くの先達が教えてくださっている、他者の人間性を奪い、自らの人間性も失っていくことそのものだと思い知らされました。
 今、私のこれまでの歩みが問われています。いかに人と出会いながら向き合っていないのか、この言葉は私の根幹に突き刺さるとても鋭いものでした。今回教えられたことを心に抱きつつ、一つひとつの出会いを大切にして歩んでいきたいと思います。
(名古屋教区・下間寿昭)

 

真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2016年3月号より