釈尊の目覚めたもの

著者:小川一乘(北海道教区西照寺前住職・大谷大学名誉教授)


「私が生きている」のではなく、「生かされている私」であるということをあきらかにしている道理を「縁起の道理」といいます。釈尊が六年間の苦行を捨ててお覚りをひらいた時に、縁起の道理をもって、自分自身を繰り返し見つめられたと説かれています。道理というのは、自分の思いや考えとかそういうことではありません。道理とはいわば真理とか理法ということです。縁起という道理をもって、私たちは本当に「私」の力で生きているのだろうか、違うのではないだろうか、ということを繰り返し観察したのです。その基本が「苦集滅道」という四聖諦(四つの聖なる真理)というあり方で観察していくわけです。第一の「苦」という聖なる真理は、すべての存在は苦しみであるということです。次にその苦しみをもたらしているものは何であるのか、その原因をあきらかにするのが「集」という聖なる真理です。次に、その苦しみを滅した状態が「滅」という聖なる真理です。そして最後に、その苦しみを滅するためにはどういう方法があるのだろうか。その方法が「道」という聖なる真理です。これを苦集滅道の四聖諦といいます。例えば、私たちも病気(苦)になれば病院に行って病気の原因(集)が分かり、病気を治して健康(滅)になるための治療(道)を受けます。これが苦集滅道という聖なる真理です。

釈尊は、生老病死に苦悩する原因を苦集滅道という方法をもって問い、「私が生きている」のではなく「生かされている私」であったということに目覚めたのです。すなわち、「私」こそが生老病死の苦悩の原因であることを突き止めて、その「私」の存在を縁起の道理によって否定したのです。これが釈尊の覚りということなのです。

釈尊のこの覚りのことを親鸞聖人は「等正覚」という漢訳を基本的に用いておられますが、「等」というのは等しいということで、等しいとは差別が無いということです。勉強した人しない人、頭の良い人悪い人に関係なく、誰にでも等しくある正しい覚りということです。特別に難しいことではなく、誰にでも起こり得る智慧のことを、「等しく正しい覚り」と、そういう意味のサンスクリット語を直訳したものが「等正覚」という言葉です。ですから、釈尊の覚りというのは決して難解な事柄ではなく、それは、誰にでも等しく起こり得る、しかも正しい目覚めである、これが等正覚という言葉の意味です。決してノーベル賞をもらうような難解なことではなく、因縁があれば誰もが目覚めることができるのです。ですから今ここに居られて、私の話を聞いてくださって「ああ、そうだったな、そういうことだったんだな」と納得した人は目覚めた仏さんなのです。

『「私」をあきらかにする仏教』(東本願寺出版)より


東本願寺出版発行『真宗の生活』(2017年版⑦)より

『真宗の生活』は親鸞聖人の教えにふれ、聞法の場などで語り合いの手がかりとなることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『真宗の生活』(2017年版)をそのまま記載しています。

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