何を伝えようとしているのか
(藤原 智 教学研究所研究員)

この社会に教団が存立している意義は、第一に教法をたもち伝えることにある。であれば、この教団に自覚的に身を置くとは、自ら教えを聞き、伝えることを自身の使命とするということであろう。
 
昨年(二〇二三年)、「地域真宗史」をテーマとしたフィールドワークで北海道をたずねた(詳細は松金直美「地域真宗史フィールドワーク報告 北海道地域真宗史(2)」『真宗』二〇二四年二月号)。北海道は、特に一八七〇(明治三)年に当時の新門現如げんにょ(一八五二~一九二三)一行が訪れたことを契機に、大谷派教団の活動が展開していった。それを念頭に、現如一行の行程をたどっていったのである。しかし、そこで大きな存在感をもって私の前に現れたのは、現如ではなく、その父であり当時の法主である厳如ごんにょ(一八一七~九四、在職一八四六~八九)であった。
 
初めに訪問した函館別院では、法宝物を調査する機会に恵まれた。それらの法宝物は江戸時代にさかのぼるものであった。北海道(蝦夷地)における真宗の歴史について、明治以降しか考えていなかった私の認識を改めるのに余りある衝撃を、それらはもっていた。ただ、そこで特に記憶に残ったのは、厳如の御影である。函館別院はもと浄玄寺という寺院であったが、一八五八(安政五)年に借り上げられ、本山直轄の御坊となる。それはまさに厳如の時代であった。
 
道中に参拝した岩内の智惠光寺でも、とても印象的であったのが、本堂の余間に掛けられていた厳如の御影である。智惠光寺は、一八五九(安政六)年に本山直轄の御坊として創立された。その開基は厳如である。
 
安政年間はペリー来航に象徴されるいわゆる開国の時代であり、一八五五年二月(安政元年十二月)には日露和親条約の調印となった。ロシアと対峙する幕府は、このとき蝦夷地を直轄地とし、キリスト教の流入を防ぐため仏教寺院を配置する方針をとったという(谷本晃久「本願寺の北海道開教の歴史について」『教化研究』第一七〇号、二〇二三年)。このような時代状況のなかで、厳如を代表とする東本願寺は蝦夷地に御坊を建立していった。
 
そこには、すでにその地に定着している和人の要請があったという。それとともに、混迷する状況下にあって、社会的な位置を確保し存続すべく、教団の有用性を幕府にアピールするという面もあったのであろう。ただし江戸時代と、明治政府による開拓政策以後とでは、北海道の様相は大きく異なるとも言われる(前掲谷本)。この明治以前の時代、現地と本山とでそれぞれ何が見えていたのだろうか。
 
苦悩する者に教えを伝えるということは、教えを聞いた者の当為であろう。では、その時その時、私は一体何を見ているのか。そして何を、どのように伝えようとしているのであろうか。それは仏法を伝えるものになっているのか。それとも、何かへつらいの言葉でしかないのだろうか。


(『ともしび』2024年7月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)


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