私の上にあるものは 全部賜うたものである
法語の出典:細川 巌
本文著者:田畑正久(佐藤とよかわクリニック院長)
仏法の基本は「縁起の法」です。この世のものは全て関係性をもっているとの法です。
仏法に出遇うまでは物事を対象化(私と切り離して冷静に眺める)して客観的に観察し、自分にとっての利用価値の有無、都合の善い悪い、好き嫌いなどで判断することが常識的思考と考えていました。利用価値があり、得になり、好きで、優れたものを身につけることで、幸福な人生が実現できる、それ以外には考えられないという思いでした。
事実、同世代の人たちは皆、義務教育を受けて、上級学校に進学したり、職業教育を受けて、各人が頑張り努力して自立する道を目指しました。その過程で学んで身につけた思考、知識、技術力、体力、知力、資格、経験を拠りどころにして、この世で仕事をすることになりました。
私は幸い学生時代から聞法のご縁に恵まれ、細川巌師のお育てをいただく僧伽との接点をいただいていました。卒業後は外科医としての学びと技術習得の努力をしていました。
四十歳頃、某病院の外科の責任者として仕事を始めた時、尊敬する細川巌師よりお手紙をいただきました。その中に「あなたがしかるべき場所で、しかるべき役割を演ずることは、今までお育ていただいたことへの報恩行です」という言葉があり、これを目にした時、私の思いは「参ったなー! 餓鬼・畜生であった!(人間に成れてなかった) 南無阿弥陀仏」でした。
聞法の歩みの中で、仏法の智慧の視点は、あるがままをあるがままに見る、そして物の背後に宿されている意味を感得していく思考とお聞きしています。よき師を通して聞かせていただく仏の智慧は、私たちの思考の拠り所の理性、知性の分別思考とは質を異にする世界でした。
自己中心の自我意識は、育てられたことを当然のことと当たり前にして、私があれもした、これもしたという思いを心の底にもっていたのです。仏教の知識は増えていたかも知れないが、身の言動は無明の迷いそのものだったのです。
縁起の法に沿って内省して、歩んできた人生のあるがままを冷静に見る時、両親のお育て、隣近所の人間関係、親戚付き合い、地域社会、学校、高校、大学、先輩後輩、関わった患者さん等々、ガンジス川の砂の数ほどの因や縁によってお育てをいただいていたのでした。仏の智慧で見る時、私と周りの環境は一体です。私が周囲の事象を切り離して対象化する思考が迷いだったのです。一体の思考とは「周囲の事象の声を聞く」思考です。それらは私を支え、生かし、願い、教え、演じさせようと働いていたのです。恩とは私になされたご苦労を知る心です。私のものは何もない、全てご縁による賜物でした、南無阿弥陀仏。
仏法のお育てをいただき、よき師・よき友の願いにふれ、さらにその背後にある念仏の心、法蔵菩薩の本願の心にふれる歩みが聞法の生活でした。人間に生まれながら身の凡夫性は免れませんが、本願の心をいただき、「本当の人間に成ろうよ」と願われ、そして人間から仏へと導かれるのです。
東本願寺出版発行『今日のことば』(2021年版【3月】)より
『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2021年版)発行時のまま掲載しています。
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