凡夫が如来を称讃して語りうること
(梶 哲也 教学研究所助手)
私は専門が仏教学であることから、失礼とは思いながらも、阿含経典をしばしば流し読みする。それもパーリや漢訳ではなく、日本語訳をざっと読むのである。自分が調べている語句の用例や引用元の経典を確認するためだ。
本来は原文を丁寧に読むべきだが、さっと確かめたいときもある。それを母語でできるのは、日本の仏教学の蓄積と先人の努力のおかげである。そう思うと、この環境に自然と感謝の気持ちが湧いてくる。そして、母語で読める気軽さもあって、目的の箇所を読み終えたあと、せっかくだからと前後の教説や、目次を開いて気になった題名の経典を読んでみることがある。すると、思いもよらない言葉に出会い、当初の目的をすっかり脇に置いて、それについて調べはじめてしまう。
先日も、そんな流れで長部経典の第一経「梵網経」を読んでいたら、とても印象的な言葉に出会った。それが、このエッセイの題にもした「凡夫が如来を称讃して語りうること」である。
あるとき、釈尊と仏弟子たちが歩いていると、別の遊行者とその弟子が釈尊たちの後ろをついてきた。遊行者は釈尊を誹謗し、その弟子は称讃している。仏弟子たちがその様子を話題にすると、それを知った釈尊は「凡夫が如来を称讃して語りうること」について教えを示された。これが経典の大まかな文脈である。
ではその語りうる内容が何かと言えば、殺生をしないこと、嘘や悪口を言わないこと、賭け事や贅沢をしないことといったよく知られる種々の戒である。戒の原語は「習慣」を意味する。だから、釈尊の日々の生活の外形的な姿だけが唯一、「凡夫が如来を称讃して語りうること」であると言われているのだろう。
そこには四聖諦や縁起といった、私たちがブッダの教説としてすぐに思い浮かべ、私自身が研究対象としている内容はまったく説かれていない。釈尊を称讃する遊行者が、実際、何をほめ称えることができているかと言えば、釈尊の見かけの生活態度だけであって、その教えの内実ではない。それをこのエピソードが示しているのだと思われる。
さて、ひるがえって私自身はどうなのかと考えてみると、ヒヤリとするものがある。日々、仏教の思想展開を調べながら、また一方で「煩悩成就の凡夫」と言い当てられる私はほめ称えるべき如来について、何を語りうるのだろうか。そして、今までの研究ですでに細々と語ってしまったことは、はたして如来の何かを説明したことになるだろうか。
ともかく、これまで何回か流し読みした「梵網経」を再び読んで、はじめてこの「凡夫が如来を称讃して語りうること」という釈尊の言葉に出会った。これはそろそろ三年になるこの研究所生活で、「称讃」や「凡夫」という言葉に触れる機会を得たからなのだろう。この環境が、私に新しい釈尊の言葉に出会わせてくれたのだと思う。その恵まれた環境にもあらためて感謝の念をおぼえる。そして、これからもまた新しい言葉に出会うことができるだろう。それを楽しみに、今日も流し読みしよう。
(『ともしび』2026年2月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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