教研通信では、一つのテーマに沿った連載を掲載していきます。連載開始にあたって掲げるテーマは、「釈尊をたずねて」。様々な時代や地域ごとに仏教の根幹として確かめられてきた釈尊について、たずねてまいります。


善導大師の釈尊観

(青柳 英司 教学研究所研究員)

 大乗の『涅槃経』によれば、釈尊はもともと、無勝世界むしょうせかいという浄土にいたとされる。

 この教説に深く注目したのが、善導であった。

 無勝世界の「無勝」とは、勝れたものも劣ったものも無い、一切の差別が存在しない、という意味である。阿弥陀仏の浄土にも並ぶ平等な境界であると、『涅槃経』には説かれている。

 この無勝世界こそ、実は釈尊の報土であるのだと、善導は受け止めていた。

 善導の言う報土とは、菩薩の本願や行業に報いて成就された世界であり、生滅を離れた常住なるものである。すなわち、釈尊は本来、平等なる境界に住まう、永遠なる存在だったのである。その釈尊が、自身の報土である無勝世界を捨てて、娑婆世界に出現することを選ぶ。娑婆の火宅で苦悩する衆生の姿が、仏の大悲を突き動かしたのであった。

 しかも釈尊は、永遠なる身のままで、娑婆世界に現われたのではない。「諸行無常」という事実を認めることが出来ない衆生を教化するために、敢えて八十年という寿命を持った有限な存在となって、八万四千と言われる多くの法門を説いて衆生を導き、あらゆる衆生と同じように命を終えていったのである。すなわち、苦の衆生を済度するために、無限を捨てて有限に徹したのが釈尊だったのであり、この点に善導は、仏の大悲の積極性を見たのである。

 しかし、有限な身となった以上、釈尊は衆生を永遠に教化することは出来ない。そのために善導も、生きた釈尊に会うことは出来なかった。では、無仏の時代を生きる衆生は、どうすればよいのか。この問題に対して善導は、釈尊が仏滅後の凡夫のために説き遺した教えとして、「弥陀の本誓願」を見出す。すなわち、釈尊は有限な衆生のために、有限の身に徹しながら、無限なる阿弥陀仏の浄土を説き、その無限なる世界へ「行け」と教えたのだと、善導は理解したのである。

 阿弥陀仏の本願力は、あらゆる衆生を生死の苦しみから救い出すものである。しかし、釈尊の教えが無かったならば、衆生はそもそも、阿弥陀仏の浄土も本願も知ることが出来ない。阿弥陀仏の本願によって衆生が救われるということは、釈尊が無限なる身を捨てたからこそ実現したことなのである。

 だから善導は、その生涯の多くを、仏を讃嘆し、有縁の人々へ願生浄土を勧めることに捧げた。様々な伝記の中に遺されている善導の姿は、いわゆる学者ではなく、市井の中で法を説く教化者のものである。その姿からは、自ら浄土の教えを信じ、仏を讃じて他の人々にも信を勧めていくことが、釈尊の恩に報いる仏弟子の在り方であることを教えられる。