2002真宗の生活

2002(平成14)年 真宗の生活 12月 【摂取不捨(せっしゅふしゃ)

<そのままのすくい>

阿弥陀仏(あみだぶつ)光明(こうみょう)は「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」と言われます。それは無条件に衆生(しゅじょう)の存在を「受けとめる力」です。江戸時代の学僧(がくそう)一蓮院秀存(いちれんいんしゅうぞん)という方に、あるご門徒(もんと)真宗(しんしゅう)の救いの(かなめ)をうかがったとき、秀存師は「そのままのおたすけぞ」と答えられたそうです。ご門徒が「このままのおたすけですか」と申し上げると、「ちがう。そのままのおたすけぞ」とおっしゃる。再度「このままのおたすけですね」とお(たず)ねすると、「いや、そのままのおたすけぞ」と答えられた。その時、ご門徒が「ありがとうございます」と合掌(がっしょう)されたのを見て、秀存師はにっこり(うなず)かれたというのです。

「そのままでよい」というのは如来(にょらい)の呼びかけです。「このままでよい」というのは私たちの側のはからいです。如来の本願(ほんがん)すら、(あつ)かましい自己肯定(こうてい)・自己正当化(せいとうか)の道具にしてしまう根性(こんじょう)を私たちは持っています。逆に「このままでいいはずはない」というのも、如来の「受けとめる力」を(うたがう)う私たちのはからいです。すでに「そのままでよい」と如来に呼びかけられているわが身に気づき、そこに思いはからい(●●●●)なく「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)南無阿弥陀仏」と答えていく。そこから真宗門徒の生活ははじまるのではないでしょうか。

『真宗の生活 2002年 12月』【摂取不捨】「そのままのすくい」