当事者を生きるⅡ①

 

シリーズ「当事者を生きるⅡ」では、
ハンセン病問題に取り組んできた
大谷派の歴史を振り返り、課題を共有するため、
ハンセン病問題に関する懇談会委員から報告いたします。

 

問われているのは誰か ─同苦・同悲を怠ったもの

<ハンセン病問題に関する懇談会広報部会・東京教区 旦保 立子>

ハンセン病国賠訴訟とは

 「らい予防法」のもとでのハンセン病患者・回復者への被害の責任を問う国家賠償請求訴訟への道を開いたのは、さん(星塚敬愛園在園・当時)が弁護士会へ宛てた、「人権に最も深い関係を持つはずの法曹界が「らい予防法」に何ら見解も示せず、傍観の姿勢を続けている」と問うた一通の手紙でした。それに呼応して、九州の弁護士連合会が動き、一九〇七(明治四十)年に公布されて以来およそ九十年に及ぶ「らい予防法」は、一九九六年三月二十七日、廃止されました。そして、二〇〇一年五月二十五日には、国の「控訴断念」を経て、「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟原告勝訴判決が確定いたしました。
 この訴訟に関わりながら、私は「問われているのは誰か。同苦、同悲を怠った仏教者ではないのか」と突きつけられたように感じていました。そして、熊本地裁の判決は、私(たち)に対する審判でもあったと、原告勝訴の喜びの涙の裏で、胸元をぎゅっとつかまれた思いがいたしました。
 

誰を問う訴訟か、何を問う訴訟か

 思いかえせば「らい予防法」廃止後、東本願寺で開催された「第二回真宗大谷派全国ハンセン病療養所交流集会(一九九八年)」に、最初に熊本地裁に提訴した原告十三人の中の二人が参加されていました。
 「いまさらお金目当ての訴訟なんて」と囁かれる中、その提訴の理由を、「補償金は二の次。「らい予防法」が廃止されても療養所も社会も何も変わらない。納骨堂に納められているお骨を引き取りに来る人もいない。法律の廃止前は、何かの折に親類からかかってきた電話も、廃止されてからは、故郷の家に帰りたいと言い出すのではないかとかかってこなくなった」と語られました。
 その後も、東京地裁、岡山地裁で提訴と、原告としての名のりは増え続け、そのうねりは広がりました。しかし、二〇〇〇年の第三回交流集会では、「こんな、国を問う訴訟を支援するような交流会にはもう来ない」との声まで聞こえてきました。「らい予防法」は法律が廃止された後も、苦しみ、悲しみを共にした友をも反目させることになりました。訴訟の原告に立った人、ならなかった人が問われる筋合いのものではなく、むしろ問題は、この訴訟が誰に何を問いかけているのか、ということだと思います。
 かつて、「らい撲滅、祖国浄化」の国策に主体的に関わり、浄土真宗の名のもとに、患者や家族の言葉にならない悩みや苦しみを「慰める」布教をし、「人間をる」(「水平社宣言」)かのごとき取り組みをしてきたのが、私たちの教団でありました。「勦る」には、かすめとる、の意味があります。
 一方で、京都大学医学部皮膚科特別研究室にて、隔離を必要としない在宅で通院による治療を行った医師・小笠原登氏は、真宗大谷派の寺院出身の僧侶でしたが、私たちの教団は、小笠原さんの声に耳を傾けることもありませんでした。
 国の政策を問うた訴訟は、実は隔離を前提とした布教をしてきた私たちの教団やその歴史も同時に問われたのだと、肝に命じなければならないと思います。その意味で、被告席の国が敗訴したということは、その国に身を置き、知らぬ顔をしてきた私たちにも、「敗訴」の審判がくだったのです。
 原告の方々の命がけの闘いは、小泉首相(当時)から「控訴断念」を引き出しました。「やっと人間になれた。胸を張ってこれから歩いて行けます」と語られた原告がおられました。「人間として」という言葉は歓喜の叫びであると同時に、九十年間も「人間を見失っていたものは、人間であったのか」という、私たちへの痛切な問いかけであったと思います。
 さらに「この訴訟の持つ意味はハンセン病だけにとどまるのではなく、あらゆるいわれなき差別に苦しみ、悲しむ人への試金石になることを願っています」との言葉の前に、頭をもたげることのできない私がいました。
 

同苦・同悲を怠ったもの

 「一生懸命他を除いたもの、それが今如来の本願から除かれている。その除かれた逆謗のもの、いわゆる正義派とはいったいどこにいるのか。(略)親鸞聖人は、「ここにいる」とおっしゃる。自分の邪魔になるものを全部除こうとするものはここにいる、自分がそうだとおっしゃるのです。(略)その大事な一点を欠落したままで、五逆と謗法のものはどこにいるのかといって探しているのです。ところが親鸞聖人は、それこそが現代に生きる自分自身に他ならないとおっしゃるのです」(『このことひとつ』)との和田稠氏の言葉は、私たちの姿を言い当てておられます。
 ハンセン病国賠訴訟勝訴判決から十七年が過ぎ、大切な人たちの訃報が続いています。その足跡をい話を聞くことができる最後の時、だからこそ出会い続けねばならないと思います。苦しみを背負ったもの、苦しむものを排除したもの、そのものたちが「互いに解放され続ける」ことを願いとして、行動し続ける他に何もないと感じるのです。
 

《ことば》
「いいかげん目を覚ませ、日本人!」
 —第十四回ハンセン病市民学会での
奥間政則さんの言葉—

 土木技術者のさんは、ハンセン病問題と米軍基地建設反対運動に取り組んでいます。かつて基地を作る側だったのに、どうして基地建設に反対なのか。それは、両親がハンセン病回復者だということと深く関係しています。
 数年前、父親の手記を読み、はじめて両親が受けてきた差別を知りました。かつて隔離政策という国策がハンセン病患者への偏見・差別を助長させたこと。それは現在、国が米軍基地を沖縄に押し付けていることに、多くの人が無関心で沈黙し続けていることと同じ構造だと考えるようになったと話します。
 冒頭の言葉は、基地問題を対岸の火事のように眺め、ハンセン病問題を「もう終わったこと」とする一方で回復者や家族への差別が終わらない、そんな社会を作っている本土の人たち、すなわち私たちへの痛烈な告発です。その叫びに耳を閉ざさず現実を見据え、具体的に何ができるのかを考えていこうと強く思わされた言葉でした。
(解放運動推進本部 近藤恵美子)

 

真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2018年7月号より