豊後二孝女の旅
(御手洗 隆明 教学研究所研究員)
昔、豊後国(大分県)臼杵(うすき)藩泊(とまり)村(旧大野郡川登村・現臼杵市野津町)の農家にツユとトキという姉妹がいた。幼い頃に母を亡くしたが、父初右衛門を支えながら成長し、親孝行な姉妹として近隣にまで知られ、姉ツユは十四歳で良縁を得た。
臼杵の善正寺(本願寺派)門徒であった初右衛門は、文化元年(一八〇四)三月、法友と親鸞旧跡巡拝の旅に出た。江戸時代も後半になると、聖跡参拝などを理由に長距離の移動が可能な時代となっていた。足に持病を抱えながら巡拝を続けた初右衛門は、常陸国(茨城県)で持病を悪化させ、水戸藩領内の青蓮寺(本願寺派・常陸太田市)住職に救けられ、療養しながらその弟子となり教西と名のった。しかし、臼杵の姉妹達との連絡は途絶えたままであった。
七年後の文化八年(一八一一)三月、西本願寺の親鸞聖人五五〇回忌法要に上山した善正寺住職は、偶然出会った青蓮寺住職より初右衛門の消息を知らされ、姉妹にそのことを伝えた。行方知れずの父を案じ続けていた姉妹は、同年八月十一日、周囲の反対を押し切り、三百里(約一二〇〇キロ)先の青蓮寺に向けて出立した。ツユは二十二歳、トキは十九歳であった。
若い姉妹にとって当時の三百里の旅は命がけであり、危険を避けるために髪を切り身なりを変え、路銀も持たなかった。身に迫る恐怖には念仏を称えることで耐えるしかなかったが、旅先で出会った人々の支援などの幸運を宗祖聖人の導きと受けとめ、菅(すげ)の旅笠に臼杵の真宗巡拝者であることを記して旅を続けた。
臼杵から海路大坂へ向かった姉妹は、九月に京都で上山を遂げた後、東海道を進み月末には箱根の関所を通過し、江戸に至った。そこでも幸運に臼杵藩士の保護を受け、十月九日、ついに常陸国の青蓮寺にたどり着き、闘病中の父との再会を果たした。臼杵出立から約二ヶ月の旅であった。
その後、姉妹は地元の人々の支援を受けながら父の回復を待ち、翌年二月九日に親子で青蓮寺を出立し、四月六日に故郷へ戻った。臼杵藩主は姉妹を称賛し、土地三石を無税で与えた。身命をかえりみず三百里の旅を遂げ、無事父を連れ戻した姉妹の逸話は、やがて「豊後二孝女」の伝説となり、茨城県では高校道徳の教科書で紹介され、大分の臼杵市川登小学校は「二孝女の碑を仰ぎつつ友愛信義勉学の」と校歌に唄った。
二〇〇五年、青蓮寺で姉妹についての古書簡十七通が発見され、二孝女伝説は史実と判明し、常陸太田市と臼杵市双方で姉妹顕彰の気運が高まり、記念碑建立や両市民による「二孝女顕彰会」設立などの交流が始まり、二〇一五年十月に両市は姉妹都市となった。
姉妹の願いが成就したのは、臼杵・水戸両藩や各地の役人の理解など数々の幸運があったとはいえ、御旧跡巡拝などによって地域を越えて生まれた真宗門徒間のつながりなくしてはありえなかった。文化十年(一八一三)以降に始まり、やがて西日本各地にも広がった「真宗移民」の歴史も、この動きのなかにある。
〈参考〉豊後国の二孝女研究会『豊後国の二孝女』(青蓮寺、二〇〇六年)、橋本留美『実話病父を訪ねて三百里』(新日本文芸協会、二〇一〇年)
(『ともしび』2016年8月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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