み仏を よぶわが声は み仏の われをよびます み声なりけり
甲斐和里子
法語の出典:『草かご』
本文著者:古田和弘(九州大谷短期大学名誉学長)
この法語には、意味深い教えが伝えられていると思います。
「み仏をよぶわが声」は、「南無阿弥陀仏」とお呼びする、私の念仏の声でしょう。私たちは、いつも「念仏申せ」と教えられています。念仏は、浄土往生という私の一大事に直接かかわる行であるからです。私は、念仏申す身となることをはっきりと自覚することが求められているのです。
「自覚」というのは、大切な言葉ではあります。しかし、それは、ややもすれば、自己満足に陥ったり、自我の主張であったりすることがあります。念仏は、仏を念ずることですが、いつの間にか、自分の都合を念ずることにすり替わってしまうことがあるのです。その念仏は、自力のはからいに過ぎないことになります。
そもそも、念仏は、阿弥陀仏の本願により、私に差し向けられているものと教えられています。つまり、念仏は他力回向の「南無阿弥陀仏」でなければならないのです。 しかし、それでも、問題がないわけではありません。念仏は、他力によるのだと教えられていても、それを受けとめる場合に、いつしか、私が他力という名前をつけた自力に陥るのです。それが、間違いだらけの愚かな凡夫のなすことなのでしょう。
私が子どもの頃、身近なところにおられたお年寄りたちが、普段の日常会話のなかで、よく、「お念仏をいただく」という言い方をしておられたのを覚えています。今もそのような言い方をなさる方々がおられると思いますが、その頃の私は、お年寄りたちの会話を聞いて、何か違和感をもったように記憶しています。念仏になぜ「お」をつけるのか、称(とな)えているのに、なぜそれを「いただく」といわれるのか、というようなことでありました。しかし、後にそれを思い出すと、あのお年寄りたちは、「他力の念仏」のことをいっておられたのだと合点するのであります。
ある知人が話してくれたことがあります。その人のお母さんは、九十八歳でお亡くなりになったのですが、その十年ほど前から、重篤(じゅうとく)な認知症で、息子さんのことも、まったくわからなくなっておられたそうです。ところが、息子さんが見舞いに行かれると、一人で「ナンマンダブ ナンマンダブ」と称えておられたそうです。それで、その知人は、「あれが、いただいたお念仏なのか」と、感慨深い思いにさせられたと、語っておられたのです。
私には、それが、この法語にある「み仏の われをよびます み声」であるのかどうか、よくわかりませんが、何か、ハッとさせられたお話でありました。
念仏は、他力によるのであることが教えられていて、それはよく理解しているつもりなのに、いつしか自力になってしまっている怖れは、いつもつきまとうでしょう。けれども、そのような私であるからこそ、いつも仏さまの方から呼びかけられているとも、教えられています。そうすると、私の念仏がどのような念仏であろうとも、私としては、ただ念仏申すこと、「み仏を呼ぶ」ことしかないことになります。それが実は、「み仏の われをよびます み声」であると、この法語は知らせようとしてくださっているように思うのです。
東本願寺出版発行『今日のことば』(2013年版【9月】)より
『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2013年版)発行時のまま掲載しています。
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